空き家 12 生家④
生家の隣保も空き家だらけだ。東隣が空き家、溝を挟んだ右隣も空き家。道路を隔てた向かいも空き家。
私が住んでいた頃、隣保は10軒だった。高校3年生だった時に祖母が亡くなり、その五年後に父が、さらに7年後に母が亡くなり、その度に隣保が集まって葬儀を仕切ってくれた。各家から男女2人が手伝いに出、男性たちはお坊さんへの連絡から役所への届、香典返しの準備から受付、香典のまとめ、墓堀さんの手配など諸々のことを手分けしてやる。女性たちは買い出しから煮炊きの一切、裏方の諸々をやるのだ。台所の裏に青いシートを屋根からかけ、農協から借りて来た大きなコンロに大なべを乗せて煮物や汁を作っていた。祖母が1月、父が3月、母が12月と、いずれも寒い時季で、殊に母の葬儀の際は30センチくらいの積雪があったので、皆さんに申し訳なくて仕方がなかった。祖母や父の時は、私に直接交渉などなかったが、母の時は私しかいないので、浄めに使う洗面器や脱脂綿の在り処を聞かれ、こんなことまで隣保がするのかと驚いた。今でこそ葬儀屋がすべて執り行ってくれるが、当時は皆隣保がやっていたのだ。
葬儀の際に使う食器やお膳なども隣保で保有していて、持ち回りで保管していたが、うちの庭の工場が使われなくなってからはそこに収めていた。食事は、出棺や葬儀などの時刻に応じてではあるが、出棺して焼き場に行く前や後(祖母の時はまだ土葬で、墓に埋葬に行って帰る際、用意されていた草鞋を途中で脱ぎ、素足で帰る。帰ると、縁に湯をはったたらいが用意されていて、そこで足を洗い、やはり用意されていたタオルで拭いて上がった)、葬儀が終わった後など、幾度か膳が用意された。その度に、料理の盛り付け、運んだり片付けたり洗ったりと、女性たちは大変だった。ご飯に豆腐汁、5種の煮物、漬物など、膳を出す度に盛り付けたり、不足分を作ったりするのだから。そして、葬儀が終わり、すべての片づけも終了し、香典と香典帳が喪主に手渡されると、遺族側が隣保の人たちにあらかじめ用意されていた膳を出し、お礼として振舞うのだ。