がらがら橋日記 バス
手を痛めてしまい、しばらく仕事を休むことになった。このところ少し立て込んではいたが、どの程度で痛むかやってみないとわからないので、今後の参考になった。草取りといえども侮れない。
時間がぽかりと空いたので、気になっていた島根県立美術館の森山大道「光の記憶」を見に行くことにした。バスで行った。バスを選んだのにはいくつか理由がある。これまで交通手段としてバスを習慣化させたことは一度もなく、市内を移動するなら自動車か自転車、徒歩以外を思うことはまずなかった。でも、そう遠からずバスに頼る生活になるのだから、今のうちから慣れておこうとは考えていた。公共交通機関を利用した方が社会にとっては微差とはいえよりましなのだし。一畑百貨店の閉店も実行を急ぐ気にさせた。公共をないがしろにすると結局は己に返ってくる。大切な場なり技術なり、買いも利用もせずにおいて、絶えるを惜しむなど身勝手が過ぎるというものだ。もう一つ、バスなら飲酒を咎められる心配がないというのも大きい。
松江は東西に流れる大橋川を挟んで南北に開けている。バスは、南半分、北半分をそれぞれ循環して松江駅で交差するルートを中心にいくつもの路線が縦横に走っている。時計回りの循環を外回り、反時計回りを内回りと称し、これらを組み合わせれば、市内どこへでも行けるようになっている。無関心とは恐ろしい。こんなこと自分が利用する気になって初めて知った。
家から最寄りのバス停で乗り、寺町で乗り換えるのだと脳内で繰り返し、それでも確認しておこうと降車の際に運転手に聞いてみると、
「んー、乗り換えねえ。美術館ならここから歩いて10分とかかりませんよお。」
はあー、おらを誰だと思っちょーや。生粋の松江市民だで。そぎゃんこと言われんでもわかっちょーわ。と思ったものの、言われてようやく思い込みに気づいた。運転手には旅行客だと思ってもらおう。
森山大道の写真は、これまでも何度か見る機会があったのだが、まとまった数を見るとまた違ったことを思った。ふさわしい被写体、光、構図、そのためのセオリー、そんなことを思った途端に撮れなくなるような写真を次々見ていると、お前はなぜそこでシャッターを切るのだ、と逆に問われているような気がしてきた。そこにどれほどお前自身がいるのか。「写真とは何か」を狂わんばかりに探り続けた写真家の剛力に圧倒された。帰りのバスの中で、さっき見た写真がいくつも浮かんできた。反芻するには、バスの車中ってのはなかなかいいなと思った。