ニュース日記 881 柄谷行人と吉本隆明

 

30代フリーター 先週、ジイさんが言っていた柄谷行人と吉本隆明の対立というのはどんな対立だったんだ。

年金生活者 吉本の発行していた雑誌『試行』の「情況への発言」(1989年2月)から吉本の柄谷批判を拾ってみる。

 「蓮見重彦、柄谷行人に浅田彰を加えれば、まさに知的スノッブの三バカ」

 「蓮見や柄谷や浅田のようなソフト・スターリニズムのシンパへ転落することが『闘争』だなどと勘違ちがいした次元で物をいっている連中」

 「読まないで批評するという点でも、けちな権力意識でも浅田などと選ぶところのない最低のブント崩れ」

30代 今のSNSで飛び交う非難の応酬の先駆けをなすような激しさだ。

年金 この柄谷批判は、柄谷が蓮見重彦との対談『闘争のエチカ』(1988年)で吉本を批判したのに応答したものだ。柄谷はそこでこんなことを言っている。

 「彼の言葉は全部比喩ですよ。比喩は共同体のなかで通じるだけです。つまり、吉本を『今世紀最大の思想家』と思っているような人たちのあいだで。彼の言葉はあまりにも不正確で、読むに耐えない」。吉本の影響を受けて文芸批評家として出発し、吉本と対談したこともある若いころの柄谷とは別人のようだ。

30代 それでも、ジイさんが柄谷を「吉本の達成の継承者」と評価したのはどういうわけだ。

年金 当時の柄谷は吉本が白と言えば黒と言い、吉本が三角と言えば丸と言うことを続けていたように思える。それが彼の考えを吉本の考えの陰画または陽画のように形づくったと考えれば、そういう評価が成り立つ。柄谷の交換様式論はそれが結実したものとして読むことができる。

 吉本が人間のもつ観念を共同幻想、対幻想、個人幻想の3つの次元に分けたのに対し、柄谷は「とにかく、思考主体だろうが性的関係だろうが、すべて共同幻想(制度)の中にあるのだと考えてみるべきです」と異議を唱えている。柄谷は、対幻想も個人幻想もすべて共同幻想、すなわち制度として扱うことによって、対幻想の領域に属する家族や親族やそれに類する主体は贈与と返礼から成る互酬交換という制度の担い手として、また個人幻想の主体としての個人は商品交換という制度の担い手として、そして共同幻想は再分配という制度を担う国家として位置づけるに至ったと考えることができる。

30代 吉本が資本主義の高度化とともに出現した消費社会を論じたのに対し、柄谷の交換様式論は消費社会にほとんど触れていない。

年金 消費は生産と表裏一体をなす。柄谷は、社会の土台を生産様式ではなく、交換様式と考えるので、消費についてもおのずと語ることが少なくなっている。

吉本は現在を消費の過剰化した社会と考えた。それは産業のソフト化に支えられた生産力の飛躍的な拡大によって可能になった。交換様式論ではそこに視線が届かない。消費が過剰化する前の段階の資本主義、すなわち第2次産業中心の産業資本主義と、現在の第3次産業中心のポスト産業資本主義との間には目に見える違いがあるのに、柄谷は問題にしない。

それは生産様式を考察の外に置いたことの代償と言っていい。代償はそれだけではない。何が交換を起動し、その様式を決めるのかを明らかにすることができなくなった。言い換えれば、支配的な生産様式の推移こそが、支配的な交換様式の推移を駆動すると考えるほかない。

30代 柄谷は交換様式をA=互酬(贈与と返礼)、B=服従と保護(略取と再分配)、C=商品交換(貨幣と商品)、D=Aの高次元での回復の4類型に分け、これまでの歴史はA、B、Cの順に支配的な交換様式が移り変わってきたとしている。Dは支配的な交換様式になったことはないが、それは必ず到来すると柄谷は予言する。

年金 どの交換様式が支配的な様式になるかは各時代の生産力によって決まると考えれば、交換を起動し、その様式を決める力が何のかを説明することが可能になる。Aの支配的な段階の生産力は狩猟採集であり、Bの支配的な段階の生産力は農耕であり、そしてCの支配的な段階のそれは機械工業だ。狩猟採集の段階では生産物の貯蔵が不可能であり、交換の範囲も規模も氏族的な共同体の内部にとどまる。すなわちAにならざるを得ない。農耕は穀物の貯蔵を可能にするので、交換の規模と範囲が広がり、Bが支配的となる。その担い手はそれまでの共同体を超える共同体、すなわち国家になる。機械工業は生産物の量を飛躍的に増大させ、その交換は国家だけでは手に負えなくなる。種類も一挙に多様になり、統一的な交換の基準が必要となる。それが等価交換であり、貨幣にほかならない。

30代 では、Dが支配的となる段階の生産力は?

年金 現在の世界の先進地域よりもさらに発展した生産力、すなわち富の稀少性をゼロに近いレベルにまで至らせる生産力だ。それは自然に大きく手を加えなくても自然の恵みが得られる狩猟採集の段階と相似形をなす。柄谷の言葉を借りれば、その「高次元での回復」がDを支える。生産力を制限する斎藤幸平の「脱成長コミュニズム」はしたがって、Dたり得ない。