がらがら橋日記 勝手口

 

 教員をしていたころは、人様のお宅にお邪魔する機会と言えば家庭訪問だった。

「勉強部屋見せてもらーけんな。」

「えーっ、やめてください。」

「じゃあ引き出しの中もね。」

などと軽口を叩いておいて訪問すると、たいていどこの家も玄関が磨き上げてあって、客間に上がると、子ども部屋からは息を詰めて警戒をする気配が伝わってきたものだった。ぼくはさすがに経験ないが、教員になったころは、訪問最後の家で大酒を飲み、そのまま泊まって翌日は子どもの家から出勤したなどという武勇伝がさしてめずらしくもなかった。時は移り、いつしか玄関先での立ち話が普通となった。ついにコロナ以降は家庭訪問そのものができなくなった。今年五類に移行して元に戻るかと思えば、そのままやめてしまった学校もあると聞く。

 教師という立場への敬意と時に反感、ぼく個人に対する支持と時に不支持、客に対する個々の家庭の習い、それらが混ざり合って応対はそれぞれ異なってくるのだけど、どの家でも明らかに客人として遇された。主客の別が前提になっていることをぼくは自然のこととして感じていた。

 学校の先生でなくなって、有償ボランティアのおじさんとしてあちこちの家に手伝いに行くようになって、ああついにお客さんではない別の立場を獲得したのだ、と気づいた。それがぼくにとっては新鮮で心地よく思えるということにも。

 お客ではない者に、人は意外と無防備だ。散らかっているところを見られても別に恥ずかしいとも思わない。ぞんざいな口をきいてみたり、丁寧に話しかけてみたり距離の取り方も気軽に試す。身構えることのない素のままのその人が出所を求めているようにさえ思える。

 草刈りを終え、汗を拭きながら勝手口から声をかけると、利用者の老婦人が「上がってお茶飲んでいきない。」と言う。ちょっとした事務もあるので、言われるまま上がる。台所のテーブルの上には、書き物だったり、野菜の入ったサラダボウルであったり、手仕事の途中がそのままで置いてある。それらの隙間に置かれたお茶をいただきながらポツリポツリと対話をしていると、スッと深みが口を開ける瞬間に出合う。ぼくがすることといえば、ただそれに蓋をしないようにするだけだ。

「あら、あんたにこぎゃん(こんな)ことまで話いてしまって…。」

 今のこの立場、思いのほか豊かな時間に巡り合う。