がらがら橋日記 松江算数活塾②
塾長から落語教室を指導してほしいと言われたとき、真っ先に何を思ったか白状すると、そんな子おーわけないがや(いるわけないって)、だった。算数を伸ばすためには国語の力が必要、落語はそれに有効、という塾長の理念には共鳴するものの、それは高尾小で10年続けてきた者の実感なのだ。みんなで落語活動するような学校は他にないのだから、先の理念を訴えたところで、は?で終わりだろう。
そこでぼくはまず、落語教室は無料としてはどうか、と提案をした。塾長は、それでは体のいい託児所だ、と言下に却下する。ならば、算数教室に申し込んだ上に希望する子どもへのおまけとしてはどうか、と食い下がってみたが塾長は半ばあきれて、この落語教育モデルは全国で評価されたのだ、応分の対価をいただくのは当たり前だ、と言う。
ここまで言われて、さすがに鈍い頭にもようやく血が巡った。塾長は安売りを戒めたのだ。自分で始めておきながらどこかで、算数は上位で落語はそれより下と思っており、いつの間にか卑屈が身についてしまっていたのだった。
塾長の言うとおり、算数と格差をつける必要などない。算数でつける力と落語でつける力とどちらも子どもを確実に伸ばすと確信しているからこの塾を開くのだ。ただ、ちょっと自己弁護をさせてもらうと、落語というのは卑屈を粗末にしない芸である。落語家は、自分を愚かに見せる努力をするし、「ばかばかしい」とか「何の役にも立たない」ことをむしろ誇る。落語の登場人物はだれも自分の卑屈なところを隠そうとはしない。だから落としてみせることが礼儀のように作用する。卑屈の内面化には気をつけないといけないのだが、この卑屈の尊重が子どもの心の成長に役立つとぼくは考えている。今のところ状況証拠しかないのだけど、子どもたちがマクラで自分の恥を話したり、登場人物の愚かさに感情移入していくのに反比例して、臆する気持ちが減っていくというのを、ぼくはどの子にも見てきた。恥を話して笑われるなんてそんな恐ろしいことできない、というのが一般的な感覚だと思うが、落語はあえてそれを狙う。狙い通りお客さんが笑ってくれたらこちらもうれしいという逆説で成り立っている。繰り返すうちにみんなできるようになる。そして精神的にたくましくなる。
ただで教えますなどと卑屈になってしまったことはほんとうに情けないが、実は卑屈をひっくり返す教室である。そんな思いがそう簡単に伝わるはずもなく、希望する子どもはやっぱりいないかもしれないが、ずーっと待つ、というのも悪くはなさそうだ。