ニュース日記 878 誰かのため、何かのために死ぬとは
30代フリーター 誰のため、何のためなら、お前は死ねるか、と問われたら、ジイさんどう答える? 今のウクライナ国民なら、多くが「国のため」と答えるだろうし、日本ではそれは少数派だろう。
年金生活者 戦後80年近くにわたって戦争をしたことのない国では当然のことだろう。だが、「わが子のため」だったら多いはずだ。前者は実感の後押しがないのに対し、後者はそれがある。
国のような公の存在は目に見えない。死を覚悟するには理屈だけでなく、感情の起動が必要だ。目に見えない対象はその感情を喚起しにくい。国家は戦争という目に見える形をとったとき、そのために死ぬ覚悟を誘うことができる。
「わが子」はそれと違って目に見える生身の存在だ。それが「この子を守るためなら死んでもいい」という感情を喚起する。同じことは程度の差はあれ夫婦や恋人、きょうだいなどの関係にも言える。ただ、親子の場合は「死んでもいい」という感情がとりわけ強いことが、実感から言える。
30代 なぜなんだ。
年金 『死はなぜ進化したか』(ウイリアム・R・クラーク著、岡田益吉訳)という本の知見を借りて、生物学的な理由づけをしてみる。この著者によると、生物は有性生殖を始めたときから、老化によって死ぬようになった。細胞分裂で増殖する単細胞生物には老化がなく、死ぬのは高熱や衝撃で細胞が破壊されたときだけだ。
有性生殖をする生物はなぜ死を運命づけられているのか。セックスをする生物は多細胞生物だ。その細胞にはふた通りあって、ひとつは身体を構成する体細胞であり、もうひとつは生殖細胞だ。このうち体細胞は分裂を繰り返すうちに突然変異が蓄積されて、危険な細胞となる。
これに対し、生殖細胞は、異なるDNAが混じり合あうので、組み換えが起こり、危険な体細胞が次世代に伝わるのが阻止される。そして、危険な体細胞をいつまでも残しておくのは種の危機につながるから、老化によって死ぬようにプログラムされている。
生物学的には、親は子を生かすために、死ななければならない。わが子のためなら死んでもかまわないという感情の強さの背後にそれがあると考えられる。
30代 誰かのため、何かのため、と言っても、その対象によって死の性格は違ってくる。
年金 守る対象は3通りに分けられる。ひとつは国家など公の存在であり、もうひとつは家族など近しい誰かだ。そして3つ目は自分自身であり、これは自殺を指す。
国を守るための戦争での死は、戦後の日本では皆無となった。親密な誰かを守るための死は、親が水に溺れるわが子を助けようとして命を失うニュースなどが伝えられることがまれにあり、皆無ではない。社会全体が貧しかった時代には、わが子を飢えや寒さから守るために、命の危険をおかしながら、自らの衣食を削って子に与えた親も多かったはずだ。それにくらべれば、現在は親が子の犠牲になろうとしても、その機会はほとんどない。
自分自身を守るために自らの命を絶つのは矛盾を含んでいるが、生きることが耐えられなくなるほど追い詰められた自分を、耐えがたい生から守るため、という考えは成り立つ。この死は今なお多い。
3通りの犠牲死を、吉本隆明の考えにしたがって分類すれば、国家など公の存在を守るための死は共同幻想の領域に、親密な相手を守るための死は対幻想の領域に、そして自分自身を守るための死は個人幻想の領域に位置づけられる。それらの多寡をくらべると、私たちの社会ではいま個人が切実な問題としてせり上がってきていることを感じないわけにはいかない。
30代 公のため、家族のため、というのはわかるが、自殺が自分を守るため、というのは実感からかけ離れている。
年金 誰かのため、何かのために死を覚悟するのは、自らを犠牲にすることによってそれらを生かすのが目的だ。自殺が自らを犠牲にすることによって自分自身を生かそうとすることだとすれば、それは死後に生まれ変わることをどこかで信じていることを意味する。
歌舞伎俳優の市川猿之助とその両親が自宅で倒れているところを発見され、両親が死亡した事件で、猿之助は「死んで生まれ変わろうと家族で話し合い、両親が睡眠薬を飲んだ」という趣旨の話を警察にしていたことがわかった、と報じられている(5月20日日テレNEWS)。
人が何かのため、誰かのために死のうと考えることができるのは、人間にとって死が生の個別性を離れて普遍性に向かうことだからだ。普遍的な存在になることは、他なる存在になること、そのために個としての自分を消すことを意味する。自殺の場合は、なるべき他なる存在が自分自身ということになる。
30代 人間は寿命が尽きるまで生かされなければならないというのが倫理の基本だとすれば、ひとりの生命が、もうひとりの生命や公の存在を守るために犠牲になるのはそれに反する。
年金 今世紀の初め、吉本隆明はそれを「人間の存在の倫理」と呼んで戦争やテロを批判した。理想社会を考えるとき、すべての犠牲死が不必要になることがその成立条件のひとつとなる。