ニュース日記 876 死を考えない日がなくなった

 

30代フリーター やあ、ジイさん。後期高齢者2年生になった気分はどうだい。

年金生活者 死を考えない日がなくなった。自分の死は経験できない。他人の死も経験できない。死はだれにも経験できないことなのに、それは確実にあると信じられている。このことは私たちの思考に矛盾をもたらす。

 それで編み出されたのが想像の中で死を経験することだ。極楽や天国に行ったり、地獄に落ちたりする物語が作られた。だが、それらは厳密に言えば、死んだあとの経験であり、死の経験ではない。

 このことは、想像の中でさえ自分の死を経験することができないことを示している。仮に自分が死ぬ瞬間を想像したとする。その瞬間には自分はもういないはずなのに、それを想像する自分を想定している。

30代 想像自体が矛盾をはらんでいる。

年金 この矛盾を切り抜けるには、死というものを生きながらにして経験できるものと考えるほかない。生物としての死の手前に、人間としての死を設定する。吉本隆明によれば、それをしたのが親鸞だ。

 阿弥陀仏の本願を信じれば、おのずから「正定聚」の位に入る。それは必ず浄土に行くことを約束された位だ。親鸞は『教行信証』でそう説いた。これについて吉本は「ほんとうに親鸞が、思想、理念、考え方として死や浄土を想定しているときは、『正定聚』の位のことを、ほんとうの死だと考えていたと思います」と述べている(『今に生きる親鸞』)。

30代 なぜ往生の前にそんな踊り場のようなものを考えたんだ。

年金 「正定聚」には臨死体験と共通したところがある。 臨死体験でよく知られた共通パターンに体外離脱と走馬灯現象がある。前者は、病院のベッドに横たわっていた瀕死の患者が天井の近くにまで浮かび上がり、自分自身や医師、看護師らを見下ろしているかのように感じる現象を指す。後者は、自分の人生の諸場面をパノラマを見るように一気に回想する経験だ。

 見かけの異なるこのふたつの体験に共通しているのは、自分と自分のいる世界とを俯瞰する位置に自分自身を置くという点だ。体外離脱を空間的な俯瞰と考えれば、走馬灯現象は時間的な俯瞰と言うことができる。自分とその世界を俯瞰する位置におのれを置くことは、自分自身を普遍的な位置に置くことを意味する。

 この普遍性への移行は、人間がふだんそれと意識せずに実行している死のとらえ方でもある。人間にとって死とは、生の個別性を離れて普遍性に向かうことを意味する。生きることは、そのつど特定の場所、特定の時間を占めることであり、その意味で徹底的に個別的なことだ。死を生の否定と考える人間はしたがって、死を個別性からの離脱、言い換えれば普遍性への移行ととらえる。

 「正定聚」を親鸞の説く「ほんとうの死」と考えた吉本は「もし、未来から現在を見通すことができれば、それが要するに死で、死というものは、そういうふうに解釈してもいい」とも言っている(同)。彼はここで「未来から現在を見通すこと」のできる死の普遍性を語っている。

 臨死体験を脳の現象として理解するとしても、それに意味を与えるのは人間であり、人間にとっての死の意味がイメージとして凝縮されているのが臨死体験ということができる。

30代 もしかしたら親鸞には臨死体験があって、それをもとに「正定聚」を説いたのだろうか。

年金 たぶん違う。彼が往生の手前に「正定聚」を想定したのは、地獄や極楽といった死後の世界は実在しないと考えたからだと思う。吉本の言葉をふたたび借りれば「親鸞は、浄土が実体としてあるとは一切言っていません。そういう意味では、仏教をほとんどぶち壊したと言っていいくらい醒めている人です」(同)。死後の世界が実体として存在しないのは、死そのものが実体ではないからだ。言い換えれば、自分では経験できないことだからだ。

 そうである以上、死は観念として想定するほかなくなる。「死というものは、肉体的な死ではなく、観念的な死なのだということです」(同)。その「観念的な死」が「正定聚」にほかならない。

30代 いまの日本人だって、口では天国とか極楽とか言っていても、たいていは本気でそれを信じてはいない気がする。

年金 だから、死後の世界よりも死ぬ前のことに関心を持つようになった。「終活」という言葉が流行り出した背景にはそれがある。「終活」をすれば、心置きなく死ねるという考えは、「正定聚」に達すれば、往生が約束されるという考えに似ている。「終活」は親鸞の教えの世俗化とも言える。

30代 自分で自分の死を始末しようとするのは、死も「自己責任」と考え、市場原理のもとに置くのに等しい。

年金 自分では経験できない自分の死に責任など取れるはずがない。それを取ろうとするのは、死を実体と考えているからだ。「終活」が「正定聚」と似ていながら違う点はそこにある。相続や葬式や墓や延命処置をどうするかといったことを決める「終活」が実体としての死、生物としての死を前提にしているのに対し、「正定聚」は観念として死、人間としての死を指している。