がらがら橋日記 銀のみち 1

 

 石見銀山から温泉津まで銀山街道と呼ばれる16キロの道を歩いてみた。ぼくにはこういう旅の発想はないので、思いついて誘ってくれる友人がいることをとてもありがたいと思う。

 大森の代官所から出発し、龍源寺間歩を経て標高400㍍を越える降路坂(ごうろざか、途中降露坂という表記も見た)を頂点に徐々に下りながら温泉津沖泊に至る。一部舗装された幹線道路を通らねばならないが、江戸初期大久保長安によって整備された街道がそのまま残っているところもあるし、登山道と言って差し支えない箇所も少なくないので、起伏にも変化にも富むユニークな街道だった。もっと歩いている人がいてもよさそうなものだが、ゴールデンウィークのまっただ中、5月5日の昼を挟んだ5時間の行程中、だれともすれ違わなかった。

 大森からの銀と温泉津からの物資が盛んに行き交うかつての幹線道路なのだが降路坂の前後は、急勾配で一人がやっとの道が続き川も何度か渡らなければならなかった。昔の人は偉かった、と月並みな感想がまずは浮かんでくるのだけど、今も輸送を実際に担っているのがトラックであるように、当時は牛が運んでいた。山陰の急峻な山道の輸送には馬よりも牛が適していたのだという。二股に分かれた蹄によって悪路でもバランスが取れるというのだ。カモシカが人間には不可能なところをすいすいと移動するあの感じに近いかも知れない。山陽だと主力は積載量に勝る馬に取って代わるので、今で言えば牛は軽トラ馬は大型トラックにあたるのだろう。

 降路坂に至ると、もうあとは下るだけなのでとてもほっとした気分になり、座って休憩を取った。よくしたもので、往還賑やかなころはもとより1940年代まで茶店が営業していた。実際に自分の足で歩いてみると、その需要と供給の見事な一致が実感できた。

 もう一カ所やはり見事な一致を感じるところがあった。降路坂から2キロばかり下るとようやく視界が開けてきて、山から抜けたことがわかる。道も広くなって二人並んで歩けるから、緊張もすっかり緩んで「飯にしよう」という気になる。かつてそこにちゃんと宿場町があった。西田集落は、今も街道の両側にほぼ同じ間口の家々が玄関を向けて連なっており、ところどころ空き地空き家になってはいるが典型的な宿場町の風情を残している。往事は宿屋や飲食店が軒を連ね大変な賑わいだったのだという。銀山には2万の人々が暮らし遊郭まであったというのだから、その輸送中継拠点として西田は栄えた。牛はここで荷替えをしたというから人や牛でごった返していたことだろう。