ニュース日記 873 多様性をめぐって

 

30代フリーター 「多様性」という言葉をマスメディアやSNSで見かけない日がなくなった。

年金生活者 世界はもともと多様だった。社会がそれに近づき、「多様性」が強調されるようになった。飢えや寒さを常に心配しなければならなかった時代の社会は、その対処に多くのエネルギーを割かなければならず、「多様」でいる余裕はなかった。

 いま言われている「多様性」には、マイノリティーの尊重が必須の要素として含まれている。飢えと寒さへの対処に労力を取られる社会は、マイノリティーの面倒をあまりみることができない。

 現在の先進諸国はそれがかなりできるキャパシティーを獲得した。資本主義の高度化が富の稀少性の縮減を加速し、消費支出の過半を選択的消費が占める社会を到来させたからだ。ただし、そのキャパシティーはまだ十分なゆとりのあるものとは言えない。大きくはなったが、依然として限られたパイであることに変わりない。マイノリティーの尊重に対して「逆差別」といった言い方がされるようになった理由がそこにある。

30代 移民をめぐる対立もそのひとつだ。

年金 この問題を乗り越えるには、パイをさらに大きくするしかない。経済成長の鈍化は不可避でも、成長を止めてしまえば、それができなくなる。資本主義のさらなる高度化と、それによる富の稀少性の縮減は、どんな政党が政権を担っても避けられない課題となるはずだ。

30代 女性は人口ではマイノリティーではないが、差別によってその意思が少数派扱いされてきたという意味ではマイノリティーだ。

年金 そんな女性をマジョリティー化することによって利潤を生み出しているのが現在の資本主義だ。「多様性」「ジェンダー平等」といった概念はそうした資本主義の意思に沿うものと言える。

 障害者やLGBTといったマイノリティーはどれだけ尊重されても、人口でマジョリティーになることはない。

 これに対し、女性は人口ですでにマジョリティーだ。「多様性」の広がりがジェンダー平等の実現につながり、人口だけでなく、社会的な意思としてもマジョリティーになる可能性がある。資本主義はそこに目をつけた。

 性別役割分業によって家庭内の仕事をおもに担わされてきた女性は、労働市場ではマイノリティーだった。資本主義の高度化は産業をソフト化し、それによって多様化した労働が、女性の賃金労働者化を促した。

 家庭内のシャドウワークでは得られなかった現金収入を得られるようになったことは、女性にとって利益の増大であり、それが働く女性を増やした。つまり女性たちを男性より低い賃金でも働く気にさせた。資本はその賃金の差額から利潤を得ることができる。

30代 格差がシステム化されている。

年金 それはかつて第2次産業中心の産業資本主義が利潤を生み出したときのモデルに似ている。当時、賃金労働者の供給源は農村だった。農民たちは都市に出て工場労働者になることによって、農業では得られなかった富を賃金として得るようになった。しかし、その賃金は労働力の再生産に必要な最低限の額に抑えられた。労働者はその額以上の労働をしたので、その差額を利潤として搾り取られた。言い換えれば不等価交換に甘んじるしかなかった。

 いま働く女性たちは男性との賃金格差という形で不等価交換を強いられている。産業資本主義の時代に、人口で圧倒的なマジョリティーだった農民が賃金労働者になることによって都市住民としてもマジョリティーになったように、現在の女性も人口だけでなく、労働市場でのマジョリティーになった。それが資本主義にとっては利潤の源泉になることを意味している点でも、かつての賃労働者と似ている。

30代 社会の目が「多様性」に向くにつれて、それまで一般には知られていなかったマイノリティーが知られるようになった。HSPと呼ばれる人たちもその一例だ。ハイリー・センシティブ・パーソンの略で、「敏感すぎる人」などと訳されている。

年金 原因は遺伝が50%、環境が50%とされている。つまり受精以前と生誕以後に原因のすべてがあるという見方だ。しかし、私の素人考えでは、両方の中間にあたる胎児の時期に受けた衝撃やストレスを原因のひとつに加える必要があると思う。

個体発生は系統発生を繰り返すというのが近似的な真理だとすれば、受精から生誕に至る母胎内での過程は、生物の進化の過程の大ざっぱな反復と考えることができる。進化は多様な種を生み出す。それだけでなく、それぞれの種、それぞれの個体の持つ特性を多様化する。それぞれの種が多様な特性を備え、さらにその個体も多様な特性をあわせ持ち、そうした特性の組み合わせのバリエーションが、種と個体の多様性を形成していると言ってもいい。HSPはそうした多様性を構成する特性のひとつに数えることができる。

「多様性」とは、多様な個人や集団が存在し、多様な考えや振る舞いをしている状態を指すだけでなく、個人や集団が自らの中に多様な主体を持ち、それらが多様な考えや振る舞いをしている状態を含んでいる。