ニュース日記 872 痛くなければ生きられない

 

30代フリーター こんなツイートを見かけた。

「人間関係に悩む人は『人に会うとは傷つくこと』だと考えてみてください。あまり傷つかない人から、とても傷つく人がいるだけです。だから人に会った後に疲れるのは普通です。それが『とても仲の良い人』であってもです」(ぱやぱやくん)

年金生活者 「傷つくこと」を「痛みを感じること」に置き換えて、「人に会うこと」「人間関係」について考えてみる。

 フィジカルな「痛み」を思い浮かべればわかるように、「痛み」というのはその度合いの幅が広い。無数の度合いがグラデーションをなしている。それは「痛み」と呼ばれていない感覚とも地続きだ。肌を強くこすれば痛いが、さすれば気持ちよくなる。気持ちよさも「痛み」の延長とみなせば、人間の感覚はさまざまな「痛み」で成り立っているとみなすことができる。

 これらのフィジカルな「痛み」が身体を含めた物質とのかかわりで生じるのに対し、メンタルな「痛み」は言葉とかかわることによって生じる。言葉というのは、何かを指し示すだけでなく、それを発する側と受け取る側の心の位置と向きを決めるからだ。吉本隆明は前者を指示表出、後者を自己表出と名づけた。この自己表出の強度や状態によって、心は「痛み」を覚えたり、「心地よさ」を感じたりする。

30代 味噌も糞も一緒にするみたいな扱い方をしていいのか。

年金 この場合そのほうがわかりやすい。「痛み」も「心地よさ」もおのれの身体の状態をリアルタイムで告げる役割をしており、その点で両者は同類だ。そうしたフィードバックなしに身体のコントロールはできない。人間は広い意味での「痛み」によって、そのつどの自らの身体像を形成し、それをもとに行動することができる。それと同様に、広い意味でのメンタルな「痛み」もまた、そのつどの心の状態を描く役割をしている。

30代 痛みは後からやってくるとよく言う。交通事故などでは特に。

年金 交通事故の場合のように、身体が並はずれた強い衝撃を受けると、交感神経がアドレナリンを大量に分泌させるので、痛みを感じる機能が一時的に麻痺すると言われている。格闘技やラグビーで選手どうしが衝突しても、あまり痛みを感じないで競技を続行できるのも、同様の理由と推定されている。

 素人なりに考えると、いきなり激しい痛みを感じると、その原因である危険な状態から逃れたり、それを除去したり、傷んだ部位を保護したりする動作ができなくなるため、とりあえず痛みを和らげるように身体ができていると思われる。そうした応急の動作がひと通り終わったあと、身体の損傷の程度に応じた強さの痛みが生じ、危険の度合いを告げる仕組みになっていると考えられる。

 メンタルな痛みを感じるときも同様のプロセスをたどることを私たちは何度も経験しているはずだ。だれかに無礼なことを言われ、そのときは大したことはないと感じて、聞き流していたりすると、しばらく時間がたって痛みや怒りが強まり、ああ言えばよかった、こうすればよかった、と思い始める。

30代 痛みを和らげる方法はあるのか。

年金 最も確実なのは、さらなる時間の経過を待つことだ。痛みの持続をひとつの緊張状態と考えれば、そこにフロイトのいう快感原則が働き、緊張を解除する無意識の心的なプロセスが開始される。それは自然治癒の一種とも言える。

 ところが、受けたダメージがあまりに大きすぎると、快感原則のシステムそのものが故障する。いつまでたっても痛みがおさまらず、ダメージを受けた場面を繰り返し思い出したり、夢に見たりする。反復強迫、現在の言い方ではPTSDの症状が生じる。ただ、これも多くは長い時間を経て治まっていくと言われている。

 だが、その場合でも、無意識の中にトラウマが残り、のちの別の経験がそれを刺激して症状を引き起こしたり、不可解な痛みを生じさせたりする可能性がある。私自身のことを言えば、おそらくたいていの人があまり気にしないような他人の言動に、不釣り合いな強さの痛みを感じることがある。自分では気づいていないトラウマが、そのとき刺激されているに違いない。

30代 痛みなしには生きていけないとは、なかなかやっかいだ。

年金 ドゥルーズは、人間は「強制されてやむを得ずといったかたちでのみ思考する」と言っている(『差異と反復 上』財津理訳、385ページ)。何に強制されるのかは書いていないが、真っ先に思い当たるのは痛みだ。フィジカルなものにせよ、メンタルなものにせよ、痛みは「なぜだ?」という問いを私たちに強いる。それが思考の始まりとなる。

思考の重なりはやがて思想を生む。思想を自分の望む世界とのかかわり方の像と考えれば、それは社会にも当てはまる。社会がおのれの望む世界とのかかわり方の像を描くとき、それが国家の理念を形成する。社会の抱える痛みや屈託が思考を起動し、その積み重なりが思想となって、国家の理念を形づくっていると言うことができる。理念は理想でもあり、それは現実が不完全であることを絶えず告げている。