ニュース日記 871 資本主義は持続可能か

 

30代フリーター 日本は貧乏になったと嘆く声をよく聞く。2021年の日本の1人当たり名目GDPは世界で33位で、2000年の8位から大幅に後退した(国連統計)。

年金生活者 社会インフラや諸制度の整い方を考慮に入れると、日本より上位の国々の国民が必ずしも日本国民より豊かな生活を送っているとは限らない。

 GDPは豊かさを交換価値だけで測る。その数字からは、生活の利便性や快適さ、つまり使用価値はわからない。刑法犯の少なさ、ダイヤ通りに動く鉄道、高過ぎない値段で手に入る衣食のモノやサービス……。そうした環境は、私たちの国が交換価値のランキングは下がっても、使用価値のランキングは上位にあることを推定させる。

 少なくとも先進国では、豊かさをはかる物差しとして使用価値がウェートを増していることをこのことは示している。これまでは交換価値が豊かさを測る唯一に近い物差しになっていた。等価交換を原理とする市場が社会の基盤を成してきたからだ。その社会はあらゆるものを等価交換の対象とする。富はその交換なしには手に入らない。理由は富の稀少性にある。その稀少性が資本主義の高度化とともに急速に縮減してきたのが、日本を含む現在の先進諸国だ。

30代 その先進国で格差が広がり、貧困が問題になっている。

年金 そうした格差、貧困は使用価値で測ると、交換価値で測る場合ほど大きくはない。

30代 米欧の中央銀行が利上げを続けるなかで、日銀がいまだに「異次元の金融緩和」を維持しているのは日本経済の停滞をあらわしているのではないか。

年金 経済学者の水野和夫はゼロ金利の長期化を「資本主義からの卒業」ととらえる(2022年5月21日東京新聞WEB版)。「卒業」の理由は「資本主義がうまく回って豊かになり、ゼロ金利になった」ことにある。これを私流に言い直すと、次のようになる。資本主義の高度化は、消費支出の過半を選択的消費が占めるほど潤沢な富を生み出し、人類史を長く支配してきた富の稀少性の縮減を加速した。その結果、稀少性に駆動されていた市場での競争が鈍化し、利潤を生み出す機会が少なくなって、金利の低下を招いた。

 水野は資本主義から卒業したあとの経済を「蓄積した富、すでに手元にあるストックをうまく回していく経済」と説き、「企業は手持ちの資金でできる範囲で、設備投資をする。大量生産は必要ないので、労働時間は今よりずっと少なくて済む」と言う(同)。

 ただし、彼は資本主義からの卒業を市場経済からの卒業とはみなしていない。蓄積した富は「回していく」し、企業は「設備投資をする」。しかし、「日独仏は『ゼロ金利クラブ』を結成して発信を」と語り、この3国に、利潤を追求しない市場経済、もうからなくても回る市場経済のモデルになるようにと提言する。要するに企業がもうけ抜きで活動することを想定している。

30代 それで人びとが株を売買し、経営者や労働者が働く気になるだろうか。

年金 少なくとも日本国民はその気になるだろう。というより、すでに日本の企業の6割以上は赤字だ。利己よりも利他を優先したがる国民のメンタリティーがそれを支えている。この心性はコロナ禍でも実証された。自分のためというより、他人を不快にしてはいけないと思って、いまだに外せないでいるマスクがそれを象徴している。

30代 東芝が国内投資ファンドへの身売りと、上場廃止を決めたのも日本経済の衰退を象徴している。

年金 「モノ言う株主」の海外投資ファンドを排除し、経営の意思決定をしやすくするのが狙いと報じられている。現在の資本主義が「株主ファースト」、すなわち「利潤第1」から離れていく兆候と見ることができる。

 それは新自由主義からの離脱でもある。新自由主義の核をなしているのが「株主至上主義」だ。それは高度経済成長の時代が終わり、資本と労働が利潤を分け合う余裕がなくなったために出てきた考え方にほかならない。

 高度経済成長は第2次産業を牽引車とする産業資本主義に特有の現象だった。つくればもうかる時代であり、その分け前は株主だけでなく、経営者、従業員、取引先といったステークホルダーに分配された。

 右肩上がりの成長が終わり、分け合うパイが細るにつれて、企業は株主だけのものという資本主義の原理がむき出しになった。株主以外のステークホルダーを守っていた諸々の規制の緩和と、安い労働力を海外に求めるグローバル化が進行した。

 それはイノベーションを促し、富の稀少性の縮減を加速する一方、格差を広げた。モノやサービスが大多数の人びとにひと通り行き渡ったことと、カネが一部の層に集中したことによって、大規模な需要は望めなくなった。「株主至上主義」を貫けば、需要はますます細り、資本主義のシステム自体が危うくなる。

 それを避けるには労働者ばかりでなく、資本家にも泣いてもらわなければならない。たいしてもうからなくてもかまわない資本主義、それほど利潤を上げなくてもやっていける資本主義を資本主義自身が求め始めているように見える。