ニュース日記 870 なぜ世界は予測困難になったのか
30代フリーター まさかと思われていたロシアのウクライナ侵略が現実となり、かつてなら勝負にならないと思われていたアメリカと中国のせめぎ合いが常態化するなど、世界はとらえがたく、予測困難になっている。
年金生活者 唯物史観が通用しない時代になったということだ。この史観は呼称こそマルクス主義に独特のものだが、中身は西側陣営によっても採用されてきた。それが明瞭にあらわれたのが、ロシアや中国に対する見方だ。
西側には、ロシアも中国も統制経済から市場経済への転換で民主主義の国になるだろうという期待があった。その根拠になっていたのが、市場経済という土台の上には自由で民主的な政治が上部構造として築かれるはずだという唯物史観にほかならない。
現実はその期待を裏切った。共産主義を捨てたロシアはプーチンをツァーリとする「帝国」として復興し、侵略戦争まで始めた。世界第2位のGDPを達成した中国も習近平を「皇帝」とする「帝国」として復興を遂げ、アメリカと無血の戦争を繰り広げている。
30代 西欧諸国では、資本主義の土台の上に民主制が上部構造として乗っかり、発展していった時代があった。
年金 第2次産業を牽引車とする産業資本主義の時代だ。そこでは自由な市場で売買される等質な労働力が利潤の源泉として必要とされた。そんな労働力を確保するのに自由と民主主義は恰好のイデオロギーとなった。
現在の資本主義は第3次産業を牽引車とするポスト産業資本主義だ。利潤の主要な源泉は賃労働からイノベーションに移った。工場労働を担う等質な労働力よりも、イノベーションを引き起こす稀有な労働力のほうが効率的に利潤を上げられるようになった。産業資本主義の発展に寄与した自由と民主主義のイデオロギーはポスト産業資本主義には必ずしも必要でなくなった。それが、ロシアや中国に見られる「帝国」の復興の背景をなしている。
このことを別の角度から見ると、ポスト産業資本主義はこれまで人類史を支配してきた富の稀少性を急速に縮減させ、その結果、土台としての経済は政治や文化などの上部構造を拘束する力を失っていったと言うことができる。富が潤沢になり、奪い合いの対象でなくなれば、人間の生活も社会も経済に左右される度合いは低下する。上部構造がどうなるか、その可能性は多様になり、必ずしも民主主義が必然ではなくなる。
30代 危ない時代になった。
年金 寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」という歌を知っているだろう。これをそっくりタイトルに含んだ論文が『流砂』23号に掲載されていた(御館博光「加藤典洋からの贈り物 Ⅱ―『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや』(寺山修司)」)。久しぶりに目にしたこの歌から、霧に覆われた世界にいるような今の自分の状態を連想した。
マッチを擦って、つかのまの明かりを得ても、海は深い霧に覆われ、ほかには何も見えない。それと同じように、毎日マッチを擦るようにブログやツイッターに何かを書いて、つかのま何かを明るみに出したつもりになっても、世界は白い闇に包まれていることを思い知らされるだけだ。そんな日々を今の自分は送っているような気がする。
30代 寺山自身はどう考えていたかわからない。
年金 この歌は、上の句が客観描写の形を取っているのに対して、下の句は「身捨つるほどの祖国はありや」と、一気に主観の表出に転じている。吉本隆明は『言語にとって美とはなにか』でその転換の過程を次のように叙述している。
「作中の〈誰か〉がマッチを擦るつかのまに霧のふかい海をみたのか、作者の位置から海のふかい霧をみたのか定かではなく、二重の含みをたもっている。そして、おそらく『ありや』ではじめて作者の位置からの表出に集約され、作中の〈誰か〉という含みはきえる」
この転換が「祖国はありや」という問いを切実なものにしている。ここで詠われている「祖国」は、自らと世界をつなぐ紐帯を象徴する言葉、あるいは、自分の住まう世界の具体的な姿を指し示す言葉と解することができる。だが、その世界は深い霧に覆われた海のように、白い闇の中に隠されたままで、自分が世界とつながっているかどうかさえわからない。
「身捨つるほどの」とは、わが身と世界とのつながりが確固としているという意味だとすれば、つながりが強ければ強いほど、世界が危機に陥ったとき、わが身は滅ぶ可能性が高まる。そんなつながりを「ありや」と問うのは、つながりに手ごたえを感じられないことの表出と理解することができる。それでも、マッチを擦り続けなければ、何かを書き続けなければ、海を覆う霧さえも、世界を隠す白い闇さえも感じることができない。
30代 「身捨つるほどの祖国はありや」は国家批判、愛国批判を含んでいるようにも思える。
年金 この歌を『言語にとって美とはなにか』で初めて知ったとき、私もそう感じた。だが、今は自分自身への問いを起動する作品としてこの歌に再会したという気がしている。