がらがら橋日記 春の畑で
日雇い応援を始めたのは、去年の初夏だった。春を迎えてほぼ一年が経ったことになる。夏から秋にかけて草取りばかりだったが、冬が近づくと掃除が多くなって、春になったら畑仕事が入って来た。人の頼み事も季節の色をまとう。
「少し前までしていたのにできなくなった。」依頼してくる独居老人は、だれもがそう言う。介護サービスを受けている人もある。どんな制度も多かれ少なかれ融通が利かないものだろうけど、介護保険もその例に漏れず、例えば訪問介護員に草取りや畑作業をしてもらうことはできない。日常生活を営む上に必ず必要な行為ではない、というのがその理由だ。日常生活の質なんて必ず必要とは言えない行為の厚みによるのだから、それを一律対象外にしてしまっては何だかとても味気ない。どこかに線を引くしかないことは分かるのだが。かくしてその穴を埋めるべく、我々の日雇い応援が要請される。有償ボランティアなので、民間の家事代行サービス業に比べれば3分の1以下の料金で済む。それでも作業に時間がかかればそれなりの金額になるので、依頼したくてもできない人は少なくないだろう。
父は、亡くなる直前まで植木や盆栽をいじっていた。日当たりを確保するため、前庭に二階建てのバルコニーを作って盆栽を並べ、剪定や水やりにいちいち梯子で上り下りしていた。90になっても平然としていたが、見ているこちらが気が気でなく、何度も説得した。でも、「これだけはやらしてごせ」と言って聞かなかった。他にわがままなことは何一つ言わなかったが、徐々に減らしはしたものの、植木と盆栽の手入れだけは最後の最後まで手放さなかった。
植物にほとんど興味のないぼくは、父が亡くなると植栽も盆栽もすっかり片づけてしまった。
「ほんとにこれ捨ててしまっていいですか。」
大工さんに念を押される度に、胸はチクリと痛むのだが、惜しんでいたら扱いきれぬ荷物を抱えることになる。ぼくは痛みを感じずに済むよう制度設計するみたいに線を引く。「全部片づけちゃってください」。
「いやあ、これから楽しみだ。いえ、たいしてできなくてもいいんですよ。ここで育っていくのを見るのが楽しみなんだから。きれいになった畑を見るのはうれしいねえ。」
ベッドに横たわったまま、ヘルパーに支えられて膝を曲げ伸ばししている老人が、作業を終えたぼくに言う。うれしいうれしいと何度も繰り返す老人にぼくもうれしくなったのだが、何だか悲しくもなってしまうのだった。