ニュース日記 869 老いをめぐって

 

30代フリーター やあ、ジイさん。後期高齢者2年目に入った気分はどうだい。

年金生活者 年寄りの生活はアスリートの毎日に似たところがあると感じる。高齢でない人たちが、自分の持つフィジカルな力のうち6割くらいを使って普段の生活をしているとすれば、高齢者は8割くらいを使って暮らしている。同じことがアスリートにも言えるはずだ。

 6割とか8割という数字に根拠はないが、わかりやすくするためにこれを使うことにする。高齢者が持てる力の8割を使うのは、力の総量が減っているからだ。アスリートは力の総量は平均より多いが、トレーニングの必要から6割では足りず8割を使う。

 両者の違いは、高齢者が生活全般に渡って8割の力を使うのに対し、アスリートはトレーニング時に集中的にそうしていることだ。アスリートの日常生活での力の使い方は一般の人たちと大差ないだろう。だが、高齢者は過去には6割の力を使うだけで済んでいた日常の行動に8割の力を使うことを強いられる。

30代 アスリートになぞらえるとはあつかましい、と言われそうだな。

年金 かつて習慣として、なかば無意識のうちにこなしていた動作を、意識的にしないとできなくなるのが、年を取るということだ。たとえば、立ち上がるとき「よっこらしょ」と声を出してしまうのは、そのあらわれと言っていい。感動詞に近いその言葉は感情の表出であり、かつて無感情でできていた動作が、感情の動員なしにはできなくなったことを意味する。

 実際、以前ならささいに見えていたことにも敏感になり、1日の感情の振幅が大きくなっているのを実感する。否応なく、それを調節することを強いられる。意識して力を使う場面の多いアスリートにとって、メンタルの調整が欠かせないように。

30代 年を取ると人間が丸くなる、と昔から言われているけどな。

年金 快感であるはずの食事や排便や睡眠が次第に労働のように感じられてくるのも老いの特徴だ。睡眠にも体力が要るとされている。それが衰え、眠りが浅くなる。それに比例するように生々しい夢を見るようになる。深く眠れば忘れるはずの夢を覚醒後も覚えているせいだろう。夢を睡眠の中に閉じこめておく力が身体から失われ、夢が睡眠の外に漏れ出すようになると言ってもいい。

 身体を知覚や運動を担う体壁系と、不随意に動き続ける内臓系に分けて考えると、睡眠とは前者が休止し、後者だけが動いている状態ということができる。吉本隆明は解剖学者の三木成夫の考えをもとに、感情の源泉は内臓系にあると考えた。だとすれば、感情は睡眠中も休むことなく動き続けているはずで、それが夢を形成すると考えることができる。その間、体壁系の知覚や随意の運動は停止しているので、外部の環境からの情報の入力はなくなる。夢が荒唐無稽になったり、リアルさを欠いたりするのはそのためだ。

30代 ジイさんの好きなフロイトは、夢は無意識の願望の充足と言っている。

年金 覚醒時には意識の領域に入り込むことのなかった無意識が、睡眠時には越境して入ってくると考えればいい。このことが意味するのは、覚醒時に無意識を無意識の領域に閉じ込め、意識の領域に侵入しないように押しとどめているのは体壁系の身体だということだ。人間の身体の機能は生理的なレベルにとどまらず、意識と無意識、すなわち精神の総体の制御にまでおよんでいると見なければならない。 

 いまどの先進国も老年期に入っているとしたら、その社会が見る夢も生々しいものになっているはずだ。その代表的なもののひとつが陰謀論と考えることができる。

30代 年を取ると、死についての感じ方も変わるのか。

年金 死ぬことよりも生きることのほうが怖い、とだれかが言っていたのを思い出した。もしかしたら、死ぬのが怖いのは、生きるのが怖いからではないかとも思えてくる。

 なぜ生きることが怖いのか。生き始めるときに人間が真っ先に襲われる感情が恐怖だからだ。母胎の楽園を追われ、この世界の荒れ野に生まれ落ちたときの衝撃がその恐怖をもたらす。生きることはその衝撃の反復として経験される。

 生きることの基本を自然に遭遇し、他者に遭遇することだとすれば、前者は荒れ野に放り出された経験の反復であり、後者は自分を庇護してくれる母との再会の反復ととらえることができる。前者だけなら、人間は生きたくなくなる。後者があるから、生きようと思い直す。

 生誕が母胎の楽園を追われることだとすれば、その楽園への帰還は生涯消えることのない願望になるはずだ。それは生まれる以前に戻ることだから、その意味で生の否定であり、死を意味する。だとしたら、死ぬことは怖いことどころか、快楽のはずだ。

 しかし、一度楽園を追われた者にとっては、そこに帰ることは快楽だけをともなう経験とは感じられなくなる。楽園は母に属し、その母はわが子をそこから追い出した恐ろしい存在でもあるからだ。そのもとへ帰ることは帰郷の喜びを予感させる一方で、怖い母を思い起こさせる。死が恐怖と甘美さの両方を感じさせる理由がそこにある。