ニュース日記 867 女性差別をめぐって

 

30代フリーター 全国の地方議会のうち、女性議員がゼロか1人だけの議会が4割を占めていることが朝日新聞のアンケート調査でわかった、と報じられている(2月18日朝刊)。列国議会同盟が去年の「国際女性デー」を前にまとめた世界の議会下院や一院制の議会の女性議員の割合は全体では26・1%だったのに対し、日本の衆議院は9・7%で、188カ国中165位と、G7では唯一の100位台だった。政治制度も経済水準も先進諸国と基本的な違いがないのに、なぜ日本だけ極端に女性議員が少ないのか。

年金生活者 安倍晋三らが強調した西側諸国との「普遍的価値」の共有は、この大きな落差を埋めることができないことを示している。その「価値」を構成する自由とか法の支配といった制度、すなわち空間的な要因でこの落差を説明できないなら、時間的な要因を考えるほかない。つまり歴史をさかのぼる必要がある。

 その過程で行き当たるのが縄文時代にあったとされる母系制だ。吉本隆明は『共同幻想論』の「母制論」で母系制の社会を「未開の段階のある時期に、女性が種族の宗教的な規範をつかさどり、その兄弟が現実的な規範によって種族を支配した」社会として描いている。つまり宗教的な権威を女性が持ち、政治的な権力をその兄弟が担ったということを意味する。

 縄文時代は1万年ものあいだ続いたことを考えれば、こうした母系的なメンタリティーが今の日本人にも受け継がれていることが想定される。だとしたら、現在でも政治的な権力は兄弟が、つまり議会は男性が担うものだという心性が温存されていると推定することができる。

30代 だとすれば、そういう心性が残っている限り、女性差別はなくならないということになる。

年金 現在の社会が母系社会と異なるのは、女性が宗教的な権威を独占していないところにある。これは政治的な権力を兄弟に独占させる根拠がなくなったことを意味する。女性が議員になることを制約するものはなくなったということだ。

 朝日新聞の記事は、女性議員の比率が5割の議会が東京都清瀬市、大阪府島本町など4市町あるとことを伝えている。これは古いメンタリティーを、議会という限定された場であるにせよ、乗り超えることが可能だということを示している。

30代 女性の少なさは議会だけでなく、企業や役所の管理職の数についても言われ続けてきた。

年金 職場での男性による女性差別は、エディプスコンプレックスという性の次元にある心的な過程が、性とは次元の異なる労働の過程で反復される結果だ。そうした次元の混同は資本主義の発展を妨げるので、ジェンダー平等が世界の潮流になった。

 フロイトのいうエディプスコンプレックスは、3~6歳くらいの男児が母と性的に交わりたいという願望を持ち、それを禁じる父に殺意を抱く無意識の過程を指す。そこで想定される父は必ずしも実在する父ではない。男児と母との間を裂く存在なら、父に代わる人物はもちろん、人間以外のものも含む。息子のそばから一時的に離れることを強いる母の仕事は典型例と言える。

 男性にとって、職場で仕事に打ち込む女性は父の方ばかりを向いている母のように無意識のうちに感じられる。幼児なら「ママ(仕事に)行かないで」というところだが、それを言えない成人男性は差別という迂回路を通って女性の仕事を抑えようとする。

30代 それだと男性は女性を差別するように出来ているように聞こえる。

年金 資本主義のもとで商品化され労働力は原理上、性の差がない。ただし、製造業など第2次産業を牽引車とした産業資本主義の時代は筋力がものをいう労働が多かったため、職場での女性差別は公然と残っていた。それがサービスや情報など第3次産業を牽引車とするポスト産業資本主義にかわって、筋力の差に意味がなくなった。その結果、女性への差別は労働過程、より広くは市場の機能を妨げる障害とみなされるようになった。

 それは人類がようやく性別役割分業やそれにともなう性差別を脱する現実的な基盤を手にしたことを意味する。現在はその転換の途上にあり、それが差別を排除するポリティカルコレクトネスの広がりと、それに対する反発とがせめぎ合う光景を現出させている。

30代 女性差別の背後にエディプスコンプレックスを想定すると、差別はなくならないという結論に導かれないか。

年金 差別は性そのものとは異なる次元で起きる現象だ。だから、そうはならない。ただし、性そのものは「女性的なもの」と「男性的なもの」との差異によって成り立っている。異性どうしでも、同性どうしでも、それは変わらない。

 たとえばその差異は男女が争うときにあらわになる。そのときの男性の最大の武器は怒りであり、女性のそれは相手の遺棄だ。男性の怒りは母胎の楽園からおのれを追放した母への怒りの反復であり、女性による遺棄はその追放行為の反復にほかならない。どちらの武器が強力かは歴然としている。怒りが瞬時の爆発に過ぎないのに対し、遺棄は持続可能だ。この非対称性は差別とは別次元にある。