ニュース日記 866 古さと新しさ

 

30代フリーター 1千億円ともいわれるバレンタインチョコレートの市場規模が映し出すギフト市場の成長ぶりを見ていると、未開な時代に盛んだった贈与と返礼の互酬制が部分的に復活しているように感じられる。

年金生活者 その復活は市場経済という最新のシステムに支えられていることを忘れるわけにはいかない。

 古いものの復活は、新しい基盤に支えられて可能になる。再生可能エネルギーは太陽光や風力など太古からのエネルギー源を使う点で復古的だが、その設備をつくる段階では化石燃料の使用が避けられないし、電力を供給する段階でも火力発電か原子力発電によるバックアップが必要となる。エネルギー変換効率が低いうえに、天候に左右されやすい再エネは安定供給が難しいからだ。

 自然の保護とか、自然の再生とか、自然との触れ合いとかといったことについても同様のことが言える。それを実行しようと自然の中に入っていくだけでも、移動のための交通機関を使い、化石燃料を消費する。

30代 太宰治の「駆込み訴え」でユダがイエスの行った奇跡のからくりを暴くところを思い出させる。

 「あの人は(中略)五つのパンと魚が二つ在るきりの時でさえ、目前の大群集みなに食物を与えよ、などと無理難題を言いつけなさって、私は陰で実に苦しいやり繰りをして、どうやら、その命じられた食いものを、まあ、買い調えることができるのです」

 古いものが新しいものに支えられ、自然が人工に支えられているとしたら、イエスの奇跡がユダの労力に支えられていたのと似たところがある。

年金 それでも「復古」は人間のやみがたい欲望であり、それが絶えることはない。胎児の時代に暮らした母胎の楽園への復帰が人間の生涯にわたる願望であるように。古いもの、あるいは自然への回帰には新しいものの到来が必要だとすれば、歴史をあと戻りさせるのではなく、前に進めることが必須となる。

30代 今世紀の思想潮流のひとつに「加速主義」と呼ばれる主張がある。ウェブ上の事典には「資本主義をどんどん加速させて推し進めることによって、資本主義とは異なる、さらにその外側にある境地に世界を到達させることをもくろむ立場」とある(「ニコニコ大百科」)。歴史を前に進める有力な思想かもしれない。

年金 資本主義は発展し尽くすまで終わらないことが確かだとしても、その発展は一直線には進まない。格差の拡大を資本主義の発展とみなすなら、国家は富の再分配によってそれにブレーキをかけてきた。資本主義の発展を人為的に加速させるとしたら、国家がそれを担う以外にないが、富の再分配を存在理由のひとつとする国家は加速の一方で減速もせざるを得ない。

 そればかりか歴史は減速なしに加速もあり得ない。20世紀の社会主義圏の成立は、資本主義の発展を阻害したように見えるかもしれない。だが、東西冷戦が終わったとき、社会主義圏は資本主義に不可欠な新たなフロンティアとして世界市場に登場し、グローバル化の原動力のひとつとなった。いま振り返ると、まるで社会主義諸国はこのときのために、安く高性能の労働力を再生産し続けてきたかのように見える。

30代 古いものの復活は新しさに支えられて可能になるとしたら、その新しさを人間はどうやってつくりだすんだ。

年金 未来が白紙である以上、過去にモデルを求めるほかない。すなわち復古を通して新しさを実現するしかない。新しさによって古さを呼び戻し、古さによって新しさをつくり出すという循環が歴史を前に進める。そのさまをマルクスはフランス革命に見た。

「そこで、人間は、自分自身と事物とを変革する仕事、これまでにまだなかったものをつくりだす仕事にたずさわっているように見えるちょうどそのときに、まさにそういう革命的危機の時期に、気づかわしげに過去の幽霊を呼びだして自分の用事をさせ、その名まえや、戦いの合言葉や、衣裳を借りうけて、そういう由緒ある衣装をつけ、そういう借りもののせりふをつかって、世界史の新しい場面を演じるのである」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』村田陽一訳)

 これに続けてマルクスは絶対王政の打倒からナポレオン第1帝政までのフランスの革命が「ローマ共和国の服装とローマ帝国の服装を代わるがわる身にまとった」と書く。アンシャン・レジームを否定し、古代のギリシャ、ローマに新体制のモデルを求めたこの革命の過程で、かつてギリシャ、ローマ人が着たチュニックやキトンのような服が普及したことを指していると推察される。

30代 そういえば、古いものに理想のモデルを求める考え方を徹底させた思想に中国の儒教がある。

年金 社会主義という先進的なヨーロッパ思想を掲げる中国がいま孔子を再評価し、習近平を皇帝とする「帝国」として復興を遂げたことにそれがあらわれている。ただし、その前近代性がグローバル資本主義という新しさに支えられたものであることを見れば、中国もまた古さと新しさの循環の例外ではあり得ないことがわかる。さらにつけ加えるなら、明治維新もまた。