ニュース日記 865 資本主義の現在地

 

30代フリーター トヨタ自動車の社長が14年ぶりに交代することになった。「トヨタ変革へ若返り」などと報じられている(1月27日朝日新聞朝刊)。

年金生活者 社長交代は、岸田文雄が使っているのとは違う意味での「新しい資本主義」に乗り遅れた結果と言える。

資本主義というシステムを意思を持ったひとつの主体と考えるなら、ここでいう「新しい資本主義」の「新しさ」とは、利潤を生み出すための必須条件である富の稀少性を人為的につくり出すことを指す。その有力な手段のひとつが「脱炭素」であり、そのために現在の資本主義はEV(電気自動車)を自動車の世界標準としつつある。それなのに、トヨタはガソリンも使うHV(ハイブリッド車)などもつくる「全方位戦略」をとってきた。それが遅れのもとになった。

30代 稀少性をつくり出すなんて、わざわざ貧乏になるようなもんじゃないか。

年金 これまで資本主義はグローバル化によって企業にイノベーションを競わせ、それによって利潤を生み続けてきた。それが富の稀少性の縮減を加速した。ところが、稀少性の縮減がさらに進んでマイナスとなるようなことが起きれば、富をめぐる競争は不要になる。競争が止まれば利潤を生む機会は失われ、資本主義の生命が尽きかねない。

 だから、稀少性を無理してでもつくりだす必要がある。そのために、「脱炭素」の名のもとに、まだ使える化石燃料を捨てようとしている。

 トヨタは「脱炭素」はHVで技術的に可能と考えていたに違いない。しかし、問題は「脱炭素」が技術的に可能かどうかではなかった。資本主義が自らの延命のために何をしようとしているかこそが肝心なことなのに、トヨタはそれに気づかなかったか、無視した。

30代 トヨタの社長交代が実体経済の変化を映し出しているとすれば、4月に予定されている日銀総裁の交代はマネー経済の変化を象徴するものとなりそうだ。10年にわたって続けられてきたアベノミクスの3本の矢のひとつ「異次元の金融緩和」の誤りを前日銀総裁の白川方明が朝日新聞のインタビューで批判していた(1月31日朝刊)。低成長の原因は物価の下落、すなわちデフレにあるという考えも、物価を上げるために、日銀券をどんどん刷って金利を下げろという主張も間違いだった、と。

年金 日銀は2%の物価目標を掲げれば、消費者はモノやサービスが値上がりしないうちに買いに走るから、需要が膨らんで現実に物価が上がると考えた。そしてそれをあと押しするために、マイナス金利政策を導入した。そうすれば、企業や家計が借金しやすくなり、消費が盛り上がって物価が上がると考えた。

 しかし、物価はいつまでたっても上がらなかった。どうしても必要なものなら、値上がりしないうちに買っておこうとする心理が働く。だが、今の日本では家計の消費支出の過半は選択的消費で占められている。値上がりするぞ、と脅されても、安い利子で金を貸すから、と誘われても、必要でないものや好みでないものまで買う気にはならない。

30代 それでも日銀は物価上昇、デフレ脱却に執着した。政府も経済界もそれをもろ手を挙げて支持した。

年金 デフレの進行が資本主義そのものの危機につながる恐れがあったからだ。日銀も政府も経済界もそれを意識していたわけではなく、資本主義というシステムに動かされていたと考えることができる。

 デフレとはモノやサービスが潤沢に供給される状態を指す。だから物価が上がらない。長谷川慶太郎はそれを「買い手に極楽、売り手に地獄」と言い表した。買い手が労働者の場合は、給料が上がらないのは不満だろうが、賃金は下方硬直性が働くので、デフレ下でも他の諸物価ほど下がったり、伸び悩んだりすることはない。

 その状態が続けば、富の稀少性の縮減は加速される。さっきも言ったとおり、もし稀少性がゼロあるいはマイナスになれば、競争は不要になる。それは利潤の獲得の機会が消滅することを意味し、資本主義にとって致命的となる。だからこそ、ほんとうは国民にとって「極楽」のはずのデフレからの脱却が叫ばれた。

30代 ところが、デフレからインフレへの転換の引き金を引いたのは、日銀でも政府でも市場でもなく、だれも想定していなかった新型コロナウイルスのパンデミックだった。その渦中で始まったロシアのウクライナ侵略がその転換を加速した。

年金 それによって企業も家計も国家財政も打撃を受けたが、資本主義というシステムはそれを歓迎したはずだ。インフレとは富の稀少性の縮減が止まることを意味する。稀少性が競争を駆動し、競争が利潤を生み出す資本主義にとって、それは好ましい事態と言える。

 アダム・スミスは「見えざる手」ということを言った。市場で各自が自分の利益を追求すれば、おのずと社会全体に適切な資源配分がなされるという考えだ。この場合の「見えざる手」を資本主義のシステムと考えれば、企業や家計や国家財政はその手のひらの上で動き回る存在に当たる。その動きだけを見ていては資本主義がどこへ向かうかはわからない。