ニュース日記 863 続・岸田軍拡

 

30代フリーター 布施祐仁というジャーナリストがこんなツイートをしていた。

《某ネット番組で小野寺五典元防衛大臣が「台湾有事」について語っていたが、戦争が始まってしまうとなかなか決着がつかず長引き、台湾と日本の南西諸島がボロボロになっていくという見通しを示していた。にもかかわらず台湾有事を起こさないための外交の話が皆無だったことに強い違和感》

年金生活者 岸田政権が中国に対して外交らしい外交もせずに敵基地攻撃能力の保有や防衛費の大幅増額に邁進しているのは、どこから見てもアメリカの意向が働いている。「盾ばかりいじってないで、もっと矛を使え。外交? お前らには百年早い。おれたちがぜんぶ仕切るから、黙って矛を研いでいろ」。そんなホワイトハウスの本音が聞こえてきそうだ。

30代 中国から見れば、矛を突きつけようとしている日本の姿は過去の侵略戦争の責任も反省も忘れたように見えるに違いない。

年金 日本の戦争責任を問う中国の姿勢が他の多くのアジア諸国にくらべて厳しいのは、日本よりはるかに長い歴史を持つ「帝国」としてのメンツをつぶされたことへの怒りがあるからだ。

 「帝国」は周辺の国々を「服属国」あるいはそれに準じる国にし、それらをいわばつっかえ棒にして統治を確かなものにしようとする。「帝国」としての中国にとって、台湾はそうしたつっかえ棒になるべき地域として位置づけられている。「台湾は中国の一部」という言い方は、国民国家の場合のような国民の同質性を想定していない。統一後の台湾は香港のような「一国二制度」を適用すると言っているのは「帝国」ならではのやり方と言える。

「帝国」の統治に欠かせないつっかえ棒としての台湾をかつて日本に併合されたのは、中国にとって屈辱以外の何ものでもない。それを無視するかのように矛を向けようとする岸田政権には我慢ならないに違いない。だが、背後には巨大なアメリカがいる。できれば無血で台湾の統一を果たしたい。

 それを読んでいるアメリカは自国の「抑止力」のすき間を埋めるために、日本に矛をそろえさせ、中国とこれから続く長丁場の「外交」に備えようとしている。岸田文雄はそれにつき従う以外に外交・安保戦略を持ち合わせていない。

30代 布施祐仁はこんなこともツイートしている。《全部政府だけで決めた後に「国民に『決意』要求」って順番が違うでしょ》。昨年12月に閣議決定した国家安全保障戦略に敵基地攻撃能力の保有を盛り込み、「国家としての力の発揮は国民の決意から始まる」と書いたことへの批判だ。政府は国防への「決意」を国民に求めて世論説得に乗り出すと報じられている(1月21日共同通信)。

年金 どこの国の政府でも国防への国民の「決意」を語るときは、たいてい「国民の決意はゆるぎない」といった言い方をするはずだ。世界に向かって自国の軍事力を示すのに、これから国民に国を守る「決意」をしてもらいます、といったような言い方をしていては、あなどられると考えるのが普通だ。

 しかし、日本の場合はそういう言い方ができないことを政府は知っている。何度か紹介したとおり、世界の社会科学者らが実施した「世界価値観調査」によると、「もし戦争が起こったら国のために戦うか」との問いへの回答で日本は「はい」が13・2%と、調査対象79カ国中最低(2017年~20年)だ。つまり大多数の国民は、政府の安保戦略が期待するような「決意」を持ち合わせていない。だから政府が始めようとしている「世論説得」は、出前の注文を受けたあと、食材の栽培や飼育を始めるようなものだ。つまり事実上できないことをしようとしている。

 いま日本国民の大多数が「決意」しているのは、戦うことではなく、戦わないことだ。政府の説得くらいでそれがくつがえることなどあり得ない。

30代 それでもやるんだろうな。

年金 説得(するふり)くらいしないと、せっかく決めた安保戦略のつじつまが合わなくなる。注文してきたアメリカに言い訳もできなくなる。中国に見透かされようが、あなどられようが、やるしかない。

 矛はアメリカにまかせ、自らは盾に徹してきたこれまでの専守防衛の安保政策を転換した代償は、「戦わない決意」の持つ、目に見えない抑止力の後退と、軍備の張り子の虎化となって、これから先あらわになるだろう。

30代 先日の朝日新聞の天声人語は、戦後の日本が戦力の不保持をうたう憲法のもとで、事実上の再軍備をなし崩し的に進め、いま敵基地攻撃能力の保有を計画するまでになった経緯にふれていた。

年金 日本人が不得手とすることのひとつに普遍性の追求がある。普遍的なものはいつも先進的な大国から与えられてきたからだ。非戦・非武装という高度な普遍性を備えた憲法のもとで軍備の強化がなされてきた背景には、自前の普遍性を持ったことのない歴史がある。それは国家という普遍性を進んで求めようとしないメンタリティーも育てた。それがいま国家による戦争を忌避する感情として保持され、憲法9条の改変の歯止めとなっている。