がらがら橋日記 おいしい

 

 干す、漬ける、刻む、生食する、など採れたて野菜を料ることが楽しい。Mさんに「野菜作ってみーだわ」と勧められたのが夏で、それから種を播いたり苗を植えたりして秋になり、仲秋を過ぎたころから野菜に関しては自給自足状態になった。ひいき目は避けられないが、スーパーで買うそれよりずっとおいしいので、どう料理したものか気がつくとあれこれ考えている。

 これまでも知人からどっさり採れたて野菜が届いたり、産直市に出くわしてしこたま買い込んだり、とこれに近似の状況は何度もあった。その都度「やっぱり鮮度が違うなあ」など言って、喜んで食していたはずなのだが、ここに来て料ることをせねばならぬ気になり、それが日課となり、味はもちろんのこと色合いなどにも気が向き、ついには器をも吟味して買い求めることまで始めたものである。

 退職して暇になったから、と言えばその通りで、「よかったね、楽しいこと見つかって」とでも返されて終わりとしてもよいのだが、ならば暇を食で埋めたということかというとそうとばかりも言えない。これまでさんざん食べてきながら、考えてこなかったことがあったのだ。それにはいくつかきっかけがあった。

 一年前、とある温泉旅館に連泊した。家族に湯治が必要だったのと、松浦弥太郎氏が時にはいい宿に泊まってその感性に学べとエッセイで説いていたのに従ってみたのだった。安いを最優先にしてきたこれまでを考えれば冒険なのだが、今思えば何かに思い切ってみたかったのだ。地味ながらも意匠を凝らした湯、料理、調度に触れているうち、自分はこれまで切り詰めてばかりだったということに気づいた。習慣に頼って、鈍いことに無自覚で、ただ時が過ぎるに任せていたのではなかったか。その省エネモードのおかげでくたばらずに勤め続けられたとも言えるのだが。抑えていた能力を活用する好機が来たのかもしれない。それは決して他より秀でようとする能力ではなく、自分の鈍さに抗う能力である。

 そんなことを考えるようになったとき、もう一つのきっかけが向こうからやってきた。種蒔く人にはそのタイミングが見えるのか、Mさんにはいいときに畑作を勧められた。Mさんはよく言う。

「どうせ食べるならおいしく食べたいがね。」

 少し前なら、「そりゃあだれだってそうでしょう」なんて言ってしまいかねなかった。今は、微笑みながらうなずく。育てる、料る、見せる、食す、それぞれに携わる者が願う「おいしい」を感受できる能力をぼくはようやく磨き始めたのだ。