ニュース日記 858 贈与のメンタリティー 

 

30代フリーター やあ、ジイさん。 自民、公明両党が「敵基地攻撃能力」の保有に合意したと報じられている。憲法9条にもとづく「専守防衛」からの逸脱が懸念されている。

年金生活者 目に見える物理的な抑止力を高める代償として、「専守防衛」という目に見えない非物理的な抑止力を弱め、全体として抑止力の低下につながりかねない。

30代 目に見えない抑止力とは何だ。

年金 赤ん坊に危害を加える者はめったにいない現実にたとえることができる。ただ、まれにはいるので、親や周りがそれから守ってやらなければならない。それに相当するのが自衛隊であり、日米同盟だ。

 専守防衛は、先制攻撃をしないのはもちろん、防衛力の保持も行使も自衛のための必要最小限にとどめるという日本独自の方針だ。これは自国の武力を低く抑えることによって、相対的に他国の武力を高めることになり、その意味で他国への「武力の贈与」と言える。贈与には互酬の原理が働く。贈られた側は返礼をしないではいられなくなる。日本への攻撃を控えることがその返礼に該当する。

 これは相手方が力を強めれば自らもそれに応じて強めるという国家の原理に反している。それなのに、日本国民が専守防衛を支持してきたのは、そのメンタリティーに互酬の原理が深く刻み込まれているからだ。この原理が支配していた縄文時代が1万年も続いたことがその理由のひとつと考えられる。

30代 しかし、敵基地攻撃能力の保有には賛成する国民が多い。時事通信の6月の世論調査では、「反撃能力」(敵基地攻撃能力)が「必要」60・9%、「必要ない」19・2%となっている。ロシアのウクライナ侵略で国民の抱いた危機感の大きさを物語っている。

年金 同時に、国家というものに対する国民の態度の変化も示している。

 ロシアのウクライナ侵略によって、いま日本国民はこれまで慣れ親しんできた互酬原理とは異なる国家原理に遭遇している。日本人にとって、それは慣れない原理を学習する経験でもあるはずだ。必死で学ぼうとするから、原理に過剰適応してしまう。その証拠に、2020年7月の日本経済新聞社の世論調査では、敵基地攻撃能力の保有に「賛成」は37%、「反対」は55%と、現在とは逆だった。

 しかし、それは互酬の原理が支配するメンタリティーが弱まったことを意味しない。政府が屋外では外してもいいと言っているマスクをいまだに外そうとしないのも、有給休暇を取るのはためらうのに、サービス残業には当然のように従事するのも、自民党を支持しながら、この党の目指す憲法9条の改正には多くが反対するのも、互酬の原理の強さから来ている。時間がたてば、その原理に突き動かされて敵基地攻撃能力に対する態度も変わる可能性がある。

30代 しかし、もうあと戻りしないかもしれない。岸田文雄が来年度から5年間の防衛費を現行計画の1・5倍以上の総額43兆円とするよう担当閣僚に指示したと報じられている(12月6日朝日新聞朝刊)。記事は「規模ありき」と伝えている。その1週間前には2027年度の安全保障関係予算をNATO並みにGDP比2%にするよう指示もしている。

年金 どんな防衛をするかよりも、どれだけアメリカに忠誠を尽くすかを優先してきたわが国外交の伝統に忠実な振る舞いということができる。

 それは、国家の設計も運営も他国を真似ることを最優先にしてきた古代以来の日本の政治指導者の態度を受け継いだものだ。唐を真似て律令国家をつくり、欧米の帝国主義諸国を真似て大日本帝国をつくり、果ては真似を通り越してアメリカの言うがままに民主国家をつくった。そもそも国家とは何なのか、肝心なところがわからないがゆえの過剰適応をそれらの歴史に見ることができる。そのもとをたどれば、国家原理になじめない日本人のメンタリティーに行き着く。

30代 日本人は国家が嫌いなのか。

年金 何かを贈られたり、してもらったりすると、返礼をしないではいられないのが互酬の原理だ。マスクの着用は他人にコロナウイルスをうつさないためとされる。それは感染防止という行動の贈与にほかならない。贈られた以上、返礼をしなければならない。この場合はそれがマスクの着用だ。そうした贈与と返礼の連鎖は同調圧力と呼ばれた。

 互酬の原理は他人に迷惑をかけたくないという心の傾向としてもあらわれる。借りをつくりたくない、借りたらすぐにでも返さないと気が済まないという心性といってもいい。有給休暇を取れば職場の同僚に迷惑をかけるから、なかなか取らない。残業を求められたときに自分だけ拒めば、皆に迷惑をかけ、借りをつくることになるから、たとえサービスであっても、しないではいられない。市場原理が支配しているはずの企業で互酬の原理を貫こうとする態度と言っていい。

 柄谷行人は互酬原理は「集権的な国家に移行することに抵抗する」と言う。だから「共同体の内部から国家が出てくることはありえない」と(『世界共和国へ』)。このことは現在の日本国民の国家に対する態度にもあらわれている。