ニュース日記 856 柄谷行人の交換様式論 

 

30代フリーター やあ、ジイさん。柄谷行人が自らの交換様式論を再考した新著『力と交換様式』を出し、新聞でも紹介されていた(10月20日朝日新聞デジタル)。

年金生活者 柄谷はこれまで歴史に登場した交換様式をA(互酬)、B(再分配)、C(商品交換)に分け、それぞれの時代に支配的な交換様式がA、B、Cの順に変遷してきたと指摘した。そしてCが支配する資本主義社会を「資本=ネーション=国家」が分かちがたく結びついた「ネーションステート」、すなわち民主主義国家ととらえた。だとすると、彼の交換様式論は非民主主義国の中国で資本主義が目覚ましい発展を遂げた現実を説明できないことになる。

30代 柄谷にそんな抜かりがあるとは思えないが。

年金 彼の資本主義社会のモデルは、すでに過ぎ去った産業資本主義の時代をもとにしているように見える。工場労働から利潤を得る産業資本主義は、取り替え可能な等質な労働力、市場で自由に等価交換できる労働力を必要とする。政治的な言葉に翻訳すれば、自由で平等な労働者を必要としている。その供給を絶やさないようにする仕組みとして自由と平等を旨とする民主主義国家を資本は必要とした。

 ポスト産業資本主義の段階ではそれが一変する。資本は依然として自由で平等な労働力を必要としながら、他方で不自由で不平等な労働力を求めるようになった。それが最も利潤を生むからだ。「不自由で不平等な労働力」とは、市場でいつでも自由に売買できるとは限らない、稀有な労働力を指している。

 「稀有な」というのはイノベーションを引き起こすことができるという意味だ。イノベーションこそポスト産業資本主義の利潤の源泉だからだ。そんな労働力を再生産するには、自由と平等を掲げる民主主義はときとして邪魔にさえなる。中国が政治的には不自由で不平等な「帝国」でありながら、経済は世界第2位のGDPに到達した理由のひとつがそこにある。

30代 柄谷はなぜひと時代前の資本主義をもとにモデルをつくったんだ。

年金 マルクス主義は経済と政治を分けた。そして経済を社会の土台ととらえ、その上に土台に応じた国家や文化が上部構造として形成されると考えた。土台が変われば上部構造はそれを反映して変化する、と。

 だが、現実には土台と上部構造のねじれがあちこちに見られる。それは政治と経済を別次元にあるものとして扱うことを迫った。吉本隆明の『共同幻想論』はその思想的な達成だった。

 柄谷はそれと逆方向の道を進んだ。政治と経済を分けるのではなく、一体のシステムとして扱った。それが彼の交換様式論であり、そこから導き出されたのが、資本主義と民主主義を一体のものと考えるとらえ方だ。

30代 吉本は柄谷をソフト・スターリニズムのシンパと批判していた。

年金 その言葉には柄谷の考えを「経済決定論」、すなわち土台が上部構造を直接決めるというイデオロギーとみなす意味合いが込められている。柄谷はそこで開き直ったのではないか。土台が上部構造を決めるどころか、両者は一体だということを証明してやろうじゃないか、と。それは『共同幻想論』への挑戦を意味したはずだ。

 資本主義の高度化が加速する富の稀少性の縮減によって、上部構造としての国家が土台としての経済に従属する度合いが深まった結果、両者を一体のものとして扱う考え方に柄谷はいっそう引き寄せられていったのかもしれない。

30代 それは彼の交換様式論が今の時代を映し出すリアリティーを備えていることを意味しているのではないか。

年金 柄谷は「ネーション」の意味を拡張して使っている。それに従えば彼の資本主義モデルが中国に当てはまらないとは必ずしも言えなくなる。

 柄谷のいう「ネーション」は現実に存在する「国民」を指していない。それは「想像的な共同体」であり、そこでは「自由」と「平等」が「想像」されていると同時に、現在では支配的でなくなった交換様式A(互酬)が「想像」されている。つまり、「自由」な競争によって「平等」を阻害するCと、「平等」な「再分配」を目指して「自由」を阻害するBのそれぞれの欠陥を補うものとして、「自由」な「贈与」と、「平等」な(相手と対等な)「返礼」が「想像」されていると理解することができる。

 「自由」も「平等」も「想像」である限り、それらは中国にも存在する。中華人民共和国憲法には「自由」も「平等」もふんだんにうたわれている。ただし、西側諸国にくらべると、それらが現実と乖離している度合いがはるかに大きく、アメリカが中国を権威主義国家と批判する根拠になっている。

 それでも柄谷の説には依然として限界を感じないわけにはいかない。彼の「資本=ネーション=国家」という資本主義社会のモデルは、「ネーションステート」、すなわち「民主主義国家」でこそより純化され、したがってより効率的に作動して資本主義を発展させそうなのに、むしろモデルからの逸脱が目立つ中国で資本主義が活性化したのはなぜか。柄谷の交換様式論からはそれを理解することができない。