ニュース日記 850 「帝国」の時代

 

30代フリーター やあ、ジイさん。習近平が中国共産党の総書記として3期目に入ることが確実視されている。

年金生活者 2期までという慣例を破り、事実上の終身の総書記として中華「帝国」の「皇帝」になる姿勢を鮮明にしたと受け取ることができる。

 習の「皇帝」化を許しているのは、世界的な「帝国」の「復活」だ。ウェストファリア条約のあと発展を遂げた「主権国家」群に押されてかつての力を失っていた中国、トルコ、インドといった古い「帝国」が今世紀に入って勢いを盛り返している。そして西側諸国を率いるアメリカもまた新しい「帝国」として力を振るい続けている。

 グローバル化した資本主義は個々の「主権国家」による経済のコントロールを困難にし、国連やEU、G7といった国家間システムによる制御を余儀なくさせている。その結果「主権国家」の権力の一部が国家間システムに移った。「帝国」は国家間システムの一種であり、「主権国家」の権力の一部を吸収することで勢いを得た。習、プーチン、エルドアン、モディらはそうした世界史的な変化を背景に登場した「皇帝」とみなすことができる。

30代 中国は民主主義から遠ざかるばかりだ。

年金 この「帝国」が民主主義に最も近づいたのは、1989年の天安門事件に至る民主化運動のときだ。「改革開放」によって後に「世界の工場」と呼ばれるまでに発展した製造業中心の産業資本主義が民主主義を要求したからだ。

 第2次産業を牽引車とする産業資本主義は、市場で売買される等質な労働力の存在なしには作動しない。政治的な言葉に置き換えれば、自由で平等な労働力の存在を必要とする。この段階の資本主義は民主制のもとで最も発展すると言っていい。

 当時の総書記の趙紫陽が学生らの主張に共感を示した背景がそこにある。だが、民主化によって共産党一党独裁が終わることを恐れた鄧小平は軍を出して学生、市民らを武力弾圧した。これは彼が「改革開放」、つまり資本主義の発展は民主主義なしでも可能だと判断したことを意味する。

30代 それは賭けだったのではないか。

年金 自由で平等な労働力を必要とする産業資本主義の発展にとって、民主主義の不在は足かせになる。しかし、世界の資本主義は先進諸国を中心にポスト産業資本主義に移りつつあった。つまり産業の牽引車が製造業中心の第2次産業からサービス、情報、金融などを中心とした第3次産業に交替しつつあった。

 先進諸国は長い産業資本主義の時代を経てそこに到達したが、中国は外資を導入することによってその成果をすぐにとり入れることができた。その結果、産業資本主義の期間を大幅に短縮できた。つまり民主制が求められる時代を速やかに通り過ぎた。

30代 ポスト産業資本主義も自由で平等な労働力を必要としているだろう。

年金 この段階の資本主義で最も利潤を生む労働力は不自由で不平等な労働力、言い換えれば市場でいつでも自由に売買できるとは限らない、稀有な労働力だ。「稀有な」というのはイノベーションを引き起こすことができるという意味だ。イノベーションこそポスト産業資本主義の利潤の源泉だからだ。中国が政治的には不自由で不平等な「帝国」でありながら、経済は世界第2位のGDPに到達した大きな理由のひとつがそこにある。

 「帝国」が古くからある国家間システムの一種である以上、国家から国家間システムへの権力の分散は「帝国」の時代への回帰を意味する。自らを「帝国」と考えている中国は自分の時代が到来したと歓迎しているに違いない。つまり「帝国」は国家のあり方として正しいと思っているはずだ。それは西欧に起源をもつ民主主義の否定を意味する。

 「帝国」は領域内に文化や制度の異なる諸勢力を抱えている。平等を理念とする民主主義に必須の国民の等質性が「帝国」には乏しい。「帝国」を正しい国家のあり方と考える限り、民主主義を選択することはあり得ないということだ。

30代 中国の国民は自由や平等とは無縁なのか。

年金 必ずしもそうとは言えない。「改革開放」の進展で世界第2位のGDPを誇る資本主義の大国になった中国の国民は限定的ではあっても経済的な自由と平等をすでに享受している。職業選択の自由、消費の自由がかつてないほど広がり、市場での競争に参加する機会の平等が制限を受けながらも保障されている。

30代 政治的な自由や平等は厳しく制限されている。

年金 それが保障されるには、西欧に起源をもつ民主主義の政体を採用することが必須となる。共産党政権にはその気が全くないし、国民も政治的な不自由と不平等を経済的な自由と平等によって埋め合わせることで現状を受け入れており、政権を倒してまでという機運は生まれていない。

 ただ、遠い未来のユートピアの絵図の中でなら自由で平等な中国を想定することができる。資本主義が現在よりさらに高度化し、富の稀少性がゼロになったとき、経済的でしかない、あるいは政治的でしかない自由と平等を超えた、人間的とも言うべき自由と平等が実現する条件が生まれるからだ。