ニュース日記 849 何をめぐる「分断」か

 

30代フリーター やあ、ジイさん。安倍晋三の国葬について朝日新聞の政治部長が「国民の幅広い合意を得られず、分断を招いてしまった」と書いていた(9月28日朝刊)。

年金生活者 国葬が「分断を招いてしまった」のではなく、すでに存在していた「分断」が国葬の強行によってあらわになったと言ったほうがいい。

 すでに存在していた「分断」とは「安倍的なもの」と「非安倍的なもの」との対立を指す。「安倍的なもの」とはアベノミクスでもなければ、「地球儀を俯瞰する外交」でもなく、集団的自衛権の行使を容認する「積極的平和主義」でもない。岸田文雄が当時の首相だったとしてもそれに近いことをしたかもしれない。

 「安倍的なもの」の核心は経済・外交・安保といった国政の根幹にかかわるところにはなく、家族およびその土台をなす性をめぐるイデオロギーに存在している。選択的夫婦別姓も、同性婚も認めず、LGBTへの差別の規制にも消極的なのがこのイデオロギーの特徴だ。こうした家族および性を縛る家父長制的なイデオロギーと、家族および性の自由を主張するイデオロギーとの対立はアメリカでも「分断」の核心をなしている。

家父長的なイデオロギーは安倍ら自民党内の右派議員を特徴づけるものであり、彼らとの結びつきが表面化した統一教会の主張と一致する。国葬があらわにした「分断」は「統一教会的なもの」と「非統一教会的なもの」との「分断」と言ってもいい。

30代 国民の多くは、安倍ら自民党内の右派と統一教会のイデオロギーが一致していることをはっきりとは知らないのではないか。

年金 彼らの主張が家族や性をめぐる自由な選択を尊重する現在のトレンドに逆行することは感じているはずだ。そんなものに縛られたくないという気分が、それと意識されることなく国葬への反対につながっていったと推定することができる。

30代 かつては「分断」ではなく「対立」という言葉が使われた。

年金 よりラジカルな響きのある「分断」が使われるようになったのは「対立」の主要なテーマが経済や外交・安保などから家族および性に移ったからだ。家族と性は政治や経済よりも人間の心の奥深いところにかかわっており、その深さが「分断」という言い方に込められている。

30代 20世紀の大きな対立は資本主義と社会主義の対立だった。

年金 柄谷行人の交換様式論に従うなら、前者は交換様式C(市場での商品交換)が支配的な社会のシステムであり、後者は交換様式B(国家による略取と再分配)が支配的な社会のシステムに相当する。

 近代的なCに対して、Bは前近代的な社会の基盤をなした交換様式であり、ソ連はそれを「社会主義」と称して採用した。その後進性は東西冷戦での東側陣営の敗北によってあらわになった。その結果、資本主義と社会主義の対立は消滅し、前者は小さな政府路線に、後者は大きな政府路線に形を変えて、経済情勢に応じて交替する補完的な関係に変わった。

 それに代わるものとして21世紀の主要な対立のひとつとなったのが、家族とその土台をなす性をめぐる対立だ。かつては資本主義を支持する勢力の中にも、社会主義を支持する勢力の中にも、ともに家父長制的なイデオロギーが残っていた。そのため、「分断」の生じる余地がなかった。高度化した資本主義が富の稀少性の縮減を加速した結果、先進諸国で選択的消費が消費支出の過半を占めるようになり、諸個人がその豊かさに相応する処遇を求めるようになった。それは女性やマイノリティーも例外ではなかった。それが家族と性の自由を求めるトレンドを形成した。

30代 対立の新旧交代が起きたのか。

年金 歴史は対立を不可避とする。というよりも、対立がなければ歴史もない。対立は人間が言葉を獲得して初めて生まれた。言葉は現実の代替であり、それは現実を否定することによって成立した。否定は言葉に固有の機能であり、対立を生じさせる条件だ。

 対立は新旧のせめぎ合いとして進行する。今ある現実を否定するのが人間であり、それを恐れるのも人間だからだ。自由を求めてやまないのに、自由を恐れる。その自由は言葉の否定する機能によって成立した概念だ。

 否定の対象となる現実には対立も含まれる。時間の経過とともに対立そのものが否定され、同時にその反動が生じる。そのせめぎ合いの果てに、両者は補完的な関係に移行し、対立は消滅する。そして新たな対立に取って代わられる。『共産党宣言』(マルクス+エンゲルス)はそれを「階級闘争の歴史」という言葉で言い表した。けれど、いま私たちはこの社会に「格差」を見ることはできても、「階級闘争」の姿を見ることはできない。

 選択的消費が必需的消費と肩を並べるようになった先進諸国の「豊かさ」が「階級闘争」という「対立」の形式を古いものにした。「階級闘争」は稀少な富を奪いあう戦いだった。資本主義の高度化が富の稀少性を縮減させ、その戦いを終わらせた。それは格差の消滅を意味しない。格差が生死を分けるほど過酷なものではなくなったということだ。