がらがら橋日記 草取り

 

 毎日のように草取りに出向くことも、その労働の対価としてお金をいただくというのも、まったく初めての経験である。だからこれまで一度も考えたことがなかったようなことを考える。その一つ。自分の草取りは我流ではないかという疑いが生じた。これまで一度も草取りについて教えられたことがないし、38年間教員をしながら子どもたちに教えた記憶もない。だれもができて、違いは根気と体力だけ。

 だが、明日も明後日も草取りとなると、もっと体に負担をかけないやり方があるのに、それを知らないだけではないかと気になってきた。長くても三時間までなので、途中伸びをしたり足腰を動かしたりすれば何のことはないのだが、無知ゆえの無駄な苦痛だったら悔しい。もしかすると今日日のこと、筋トレを兼ねる姿勢や運動があって、草取りと同時に体幹を鍛えられるなどと説く者もいるかもしれない。

 肉体だけではない。精神についてもどこかに意義深い思索があるかもしれない。と言うのも、草取りをしていると、ただただその行為に没入して時が経つのを忘れている場合がある。昔、寿司屋でアルバイトをしていたとき、もっとも好きだったのは、魚の形をした醤油容器(金魚と呼んでいた記憶があるが、正確には鯛)に油差し様の容器から醤油を一つ一つ注入する仕事だった。異様に集中してくる感覚があって、自分に向いている仕事はこれではないか、と真剣に考えたものだった。醤油さしにしろ草取りにしろ、単純な反復の中で心が鎮まっていく過程は、山登りにも似る。ひょっとすると禅にも通じるのでは、と思うのだ。

 草取りの道具や仕方そのものにももっと効率のよいものがあるのなら、自分だけでなく利用者にも益となるわけだから、ちょこっと就労の今後のためにも学んでおきたい。愛用のねじり鎌を超えるものがあれば喜んで買いもしよう。

 いつものならいで、ひとまず書籍で調べようと図書館に赴いた。というか、他の本の貸借のついでに調べた。そんなもんあるわけないだろ、と高をくくっていたからだ。あった。『農家が教える草刈り草取りコツと裏技』『草取りにワザあり!』。ぴったりだ。こういう時だ、図書館の存在意義がいや増しに増すのは。

 一方の草取り精神論については、書籍こそ見つからなかったがネットでは意外とヒットして、多くはお寺のご住職のブログに見ることができた。山寺の草取り、その労苦たるやぼくなぞ比較にならぬ。ここに信仰の出番がある。「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」と白隠禅師の言葉を引いて草取りは禅に他ならずとしているご住職があった。作麼生。