ニュース日記 835 没後10年の吉本隆明

 

30代フリーター やあ、ジイさん。今年は吉本隆明の没後10年だったな。

年金生活者 このあいだ電話をかけてきた相手に言われて、それを思い出した。

30代 どんな話をしたんだ。

年金 千年に1度しかあらわれない人物と無数の無名の人たちの価値はまったく同じだと吉本は言ったと話したら、そんなことは彼が言う以前から言われてきたことではないかと言うので、同じようなことを考えていたのはラカン、フーコー、親鸞くらいしか私は知らないと答えた。そして、吉本にそうした考えがなかったら、「自己表出」や「了解の時間性」といった概念は出てこなかっただろうと話した。

 吉本はこんな言い方もしている。いちばん価値ある生き方は、自分や家族や身近な人の生活のことは考えるけれど、天下国家のことなど日常から離れたことは考えない生き方で、偉大な思想家、偉大な宗教者、偉大な政治家と言われている人物がいちばんだめなやつなんだ。思想の課題は知識を蓄えることではなく、最も価値ある生き方をしている人たち、すなわち「原像としての大衆」あるいは「大衆の原像」を思考に繰り込むことだ。

30代 繰り込んだ結果どうなったんだ。

年金 「大衆の原像」に対応する概念、言い換えればそれと相似形をなす概念として、言語論では「自己表出」が、心的現象論では「了解の時間性(時間化)」が、そして幻想論では「対幻想」が導き出されたと私は考える。そして「大衆の原像」と対極をなすものとして彼が想定した「知識人」と対応する概念、相似形をなす概念が言語論では「指示表出」であり、心的現象論では「空間的な関係づけ(空間化)」であり、そして幻想論では「共同幻想」あるいは「個人幻想」にほかならない。

 言語論を例にとれば、『言語にとって美とはなにか』で描かれた太古の狩猟人が初めて海を見て「う」と叫んだとき、そこに「自己表出」の起源がある、と吉本は考えた。その叫びはだれかに何かを伝える「指示表出」とは異なる。それは樹木にたとえれば根と幹に相当し、そこから枝が伸び葉が茂って初めて「指示表出」となる。

 知識を他者から伝えられて知識人となった者は、その知識を別の他者に伝えようとする。そのための道具が言葉であり、言葉を伝達の手段として、つまり「指示表出」として使うのが知識人だ。これに対して、「原像としての大衆」は言葉を主として身近な人たちへの喜怒哀楽や好意や嫌悪を表すものとして発する。その原型は海に初めて遭遇した驚きを「う」と表した狩猟人にある。

30代 「了解の時間性」のほうはどうなんだ。

年金 彼は人間の心の働きを、対象の「空間化(関係づけ)」と「時間化(了解)」(「了解の時間性」)の2段階の過程としてとらえた。茶色っぽい細長いものがいくつも集まったひとかたまりが目に入ってくる過程が「空間化(関係づけ)」だとすれば、それを「まずそうな焼きそばだ」とか「すぐ食べたい」と感じるのが「時間化(了解)」だ。

 「空間化」は対象をあるがままに受け入れる過程、言い換えれば客観的にとらえる過程だ。目の前にある焼きそばは、ほぼだれの目にも茶色っぽい細長いものがいくつも集まったひとかたまりとして目に入ってくる。これに対して、「時間化」は前に置かれた焼きそばを「まずそう」とか「食べたい」と感じることだから、人によって違いがあり、主観的な過程ということができる。

 ふたつの過程を吉本が「空間化」と「時間化」と名づけたわけを私なりに推測すると、前者は一瞬にして可能であるのに対し、後者は時間を必要としているからだと思う。焼きそばを前にしたとき、目には瞬時にその姿が映る。それを「まずそう」とか「食べたい」と感じるには、過去に食べた記憶や空腹かどうかという身体の状態を参照する必要があり、それには時間がかかる。

「空間化」は対象をあるがままに受け入れる客観的な過程だという意味で、物事を客観的にとらえようとする「知識人」の態度と相似形をなしている。これに対し、「時間化」は対象を主観的にとらえることによってそれを行動に結びつけることを可能にする。その過程は、日々の生活に関心を集中させて暮らす「原像としての大衆」と相似形をなしている。

30代 吉本がそこまで大衆にこだわるのはなぜなんだ。

年金 「お国のために」と戦争に突き進んだ日本国民が、天皇の玉音放送を境に「自分のために」とエゴをあらわにし出した豹変ぶりに彼は衝撃を受けた。「大衆」とはなんなのか。その「原像」を思考に繰り込むことにこそ思想の課題があると考えた彼は、その存在の場を「家」に求めた。

 そこから導き出されたのが家族の本質をなす「対幻想」という概念だ。吉本はこれを「共同幻想」と「個人幻想」のあいだに位置づけ、人間の全幻想領域はこれらの3つの幻想領域から成ると考えた。このうち「共同幻想」と「個人幻想」は西欧の思想も繰り返し考察の対象にしてきた。吉本の独自性は、「対幻想」をそれらふたつの領域と同等あるいはそれ以上の重みのあるものとして考察の対象としたことだ。