ニュース日記 832 感情の生まれ方
30代フリーター やあ、ジイさん。ロシアのウクライナ侵略をめぐって、ひとつの事実を正反対に受け取る対立した見方をよく目にする。マスメディアでは、病院や学校まで無差別に爆撃し、民間人の犠牲をいとわないロシア軍の行動が繰り返し伝えられる。これに対し、たとえばツイッターでは次のような見方が語られる。「なぜNATOのように民間人子供いようと関係なく一気に空爆しない?その方がロシア兵の犠牲が少ないのに」(Mia)。戦争当事者だけでなく、第三者のはずの人たちが、なぜあばたをえくぼと感じたり、えくぼをあばたと見たりするようなことが起きるのか。
年金生活者 それらは単なる「事実認識」ではなく「感情」をともなっている。SNSだけでなくマスメディアも同様だ。前世紀末にNATO軍がユーゴスラビアを無差別爆撃した「あばた」を忘れたかのようにロシア軍の非人道性を伝えている。
なぜ当事者でない人たちがこれほど「感情」に動かされるのか。戦争には第三者を当事者化する特性がある。その姿が私たちの目に立体映像のように飛び込んでくるからだ。
吉本隆明は、地上での日常的な視線(普遍視線)と上空の無限遠点からの視線(世界視線)が交差するとき立体映像が生まれると考えた。私たちが戦争のニュースからイメージするのは、地上での銃撃や地上に降り注ぐ爆弾などと同時に、どの国とどの国がどこでどうせめぎ合っているかを示す地図だ。前者は「普遍視線」に、後者は「世界視線」に相当する視線によってとらえられたイメージということができる。
両者が交差して形成される立体的なイメージは、戦争が遠いところではなく、あたかも手を伸ばせば触れることのできる間近なところで起きているかのような生々しさを帯びる。それが第三者を当事者化し、その心の内に感情を立ち上がらせる。
30代 吉本がそう言っているのか。
年金 言ってはいないが、吉本自身の感情の定義と合致する。彼は、人間の心が何かをとらえるとき、まず対象と自分とを空間的に関係づけ、次に時間をかけてその対象が何なのかを了解すると考えた。「時間をかけて」と言うと、長い時間のように受け取られるかもしれないが、瞬時に近い時間だ。そして、その時間的な「了解」をさらに空間的に「関係」づけるとき「感情」が生まれる、と考えを推し進めた。
時間的な「了解」を2次元の映像と考えれば、それをさらに空間化する「関係づけ」は、その映像の3次元化を意味する。2Dのときは自分との間に距離があると感じられていた映像が、3Dになったとたんに、手で触れられるほど間近に迫ってくるように感じられる。それが感情だ。
「あばたもえくぼ」の「あばた」を2Dの映像とすれば、「えくぼ」はそれが3D化した映像だというたとえ方ができるだろう。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の「袈裟」は3Dの映像と化した「袈裟」ということができる。
この3D化を駆動するもの、「関係づけ」を強いるのが他者との「関係」だ。だから、喜怒哀楽といった感情はすべて他者との「関係」のあり方を表している。
30代 吉本の考えの拡大解釈じゃないのか。
年金 彼が考え出した指示表出と自己表出、空間化と時間化といった独自の諸概念は幅広い応用が利く。私はそれらをいろんなことに当てはめて考えてみるのが癖になった。「普遍視線」と「世界視線」めぐる考察も同様だ。たとえばそれを人間の死に当てはめることもできる。私たちは死の地点から生を見る視線を想定することができ、それを「世界視線」に相当すると考えることができる。
そう考え得るのは、死が生の個別性を離れて普遍性に移行することを意味するからだ。生きることはそのつど特定の場所と時間を占める、徹底的に個別的なことだ。死はその否定であるという意味で普遍性への移行として人間にとらえられている。
個別性から離れること、普遍性へ移行することは、視点を上空へ移し、個別性を俯瞰できる高みに置くことだ。そのとき「世界視線」に相当する視線が獲得される。これに対し、生の個別性の中で行使される視線は地上での視線であり、「普遍視線」に相当する。両方の視線が交差したとき、私たちは自分自身とそれを取り巻く世界の立体像を手にすることができる。
30代 俺はそんな像を見たことないけどな。
年金 それはラカンの唱えた鏡像段階に似ている。生後6カ月から18カ月の幼児は鏡に映る自分の姿を見て、それまでバラバラに感じていた自身の身体を初めてひとまとまりのものとして感じる。母から「ほら、これがあなた」と言葉や仕草や表情で伝えられ、自分を統一的な存在と感じて喜ぶ。このときの母の視線は「世界視線」に相当し、幼児は世界とかかわる自分の立体像を獲得する。
人間はこの視線を鏡像段階のあとも保持しながら生きていく。それと同様に、死からの視線も死ぬときだけ出現するのではなく、生きているあいだ起動させることができる。そのときの自分の立体像は、鏡像段階の幼児がそうだったように、自分自身を受け入れる足がかりとなる。