専業ババ奮闘記その2 整理⑤

 

 四十九日の法要は、我が家の3人、義姉、姪二人とその子どもだけで行った。畳の表替えが何とか間に合い、青畳の香りの中でご住職が読経をされる。お経を聞きながら、我が家や親戚の法事では主だって段取りをし、このご住職ともあれこれ打ち合わせていた義母が、拝まれる側になってしまったのだなあとしみじみ思う。

 読経の後は墓へ行き、納骨。ところが、骨壺を収めるため石を退けようとした夫が、「あっ、腰が」と呻く。結局息子と私とで動かした。「おばちゃん、男前」と姪っこの声が飛ぶ。

 法事の後のお浄めの食事会は、義母の白寿の祝いをした料亭で行う。その時の話もしながら、義母にまつわるそれぞれの思いをゆったり語り合った。

 家に帰って、祭壇を片付ける。これで、朝晩は元通りの仏壇で線香をあげることになる。

 翌日、宗矢の熱も下がり、娘たち母子がやって来た。まずは仏間に進み、皆で線香をあげる。宗矢はおりんを叩く役。しつこく叩き続けるので、お母さんに叱られていた。

 宗矢はほぼ回復し元気そうだ。部屋で少し遊んでから散歩に出かけた。昼食を摂り、昼寝をした後、娘の保育所時代からの友人が、香典を持って訪ねて来てくれた。うちに遊びに来ることも結構あり、義母のこともよく知っている。着付けをしていると聞いていたので、義母の箪笥にあった、使っていない帯締めなどを持って帰ってもらった。

 娘は、先日衣装ケースなど大物を持って帰ったが、今日もあれこれ物色している。と、動きが止まった。見ると、泣いているではないか。「これ、持って帰っていい」と目頭を押さえながら言う。手にしているのは、一枚の封筒だ。そこには、舅や姑が亡くなった年、二男、夫、三男を亡くした年と、それぞれ亡くなった歳が書かれていた。「子ども二人も亡くしたんだね」という娘の頬を涙がつたう。義母と娘は、申年と戌年のせいか、よく言い合いをしていた。娘は黙っていることが出来ない性格で、義母も言い返さずにいられない質だ。周りで、「また、犬と猿がやってる」とよく言ったものだ。その娘も3人の子の母になった今、義母がどんな思いで生きて来たか感じることができるようになったのだろう。封筒は折ってポケットに入れ、枕などを車に積み、3人の子どもたちと帰っていった。