がらがら橋日記 近代文学五十選
高校生の時、友人に勧められて桑原武夫の『文学入門』を読んだ。古本屋で年季が入ったのを数十円で買った。たいして理解もできなかっただろうから、今思い返してもどんなことが書いてあったのかよく思い出せないのだが、巻末の推薦図書リスト「世界近代文学五十選」は、繰り返し見たので、今でもだいたい覚えている。なぜだかここに挙げられている本は読んでおかなくてはならないのだ、と思い込んでしまい、差し支えなさそうな授業の時は、引き出しにしのばせてまで読んだ。当然差し支えた。それでも一冊、また一冊、とリストに既読の印を付けたくて、構わず読み進めた。
リストの大部分が岩波文庫の赤帯だった。そもそも『文学入門』そのものが戦後それほど時を置かず出版されたものなので、リストに挙げられている本もそれより古いものばかりだった。本は新しくても、中身は大家の文語調の翻訳というのがけっこうあって、読み進めるのに難儀した。
とにかく読了することが目的なので、読んでわかる、味わう、感動するなど二の次である。活字を追いながら頭の中では別のことを考えている、などしょっちゅうだった。それに気づくと、元に戻ったものか一時迷うのだが、たいていはええいままよと先に進む。ヴィクトル・ユーゴーの『レミゼラブル』など今の改訳版と違って、冊数も多かったと記憶するが、ただ文字を追うだけで数冊分は読んだ、いや見た。
リストの全作読破はできなかったけれど、それでも何年かかけて相当数手にした。もちろん理解なんぞほど遠い。だから仮に聞かれても、読みましたなどととても言えない。
この意固地なだけの、意味に乏しい読書体験で屈折したぼくの読書欲は、その後長く長く「近代文学五十選」から遠ざかることになる。
ところが、退職して時間ができてみると、「やっぱ読んじょかんといけん」という気がしてきたから不思議だ。四十年経って、昔ないがしろにした名作たちをていねいに読んで、詫びを入れたくなったのかもしれない。それに、ここ十数年で光文社の古典新訳文庫をはじめ、多くの出版社から意欲的な新訳が次々と出版されていて、環境がうんと整ってきたことも大きい。シェイクスピアの諸作、トルストイの『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、どれもこれもこの一年でようやく読んだ。すばらしくおもしろかった。若いうちに読んでおけ、など決して言うまい。名作は、いくつで読んでもおもしろいから名作なのだ。