がらがら橋日記 桜懺悔
薄明かりの中を走っていたら、ふっと甘い香りがした。沈丁花が咲き始めたのだろう。坂道が上りから下りになって、弾んだ息が落ち着くあたりの家に植わっていて、季節限定ながら給水所ならぬ給香所になっている。このところ意欲が減退気味だったので、エネルギーを補給させてもらえそうだ。
これから次々と花々が咲き始める。坂道のてっぺんには早咲きの桜があって、毎年一本だけ極端に早い。それが散り始めると、朝酌川の土手の桜並木が一斉に咲く。それが終わると、坂道を下った辺りの八重桜が咲き誇る。これから当分、花見ランニングだ。
桜にもいろんな種類があって、わずかな季節の変化で開花のバトンパスをするなんてことを気づかせてくれたのは、小林秀雄だ。高校時代、現代文の試験によく出るが難しくて何が言いたいのかわからない、と敬意とも揶揄ともつかない微妙な評価を仲間内でしていた人だが、講演録となるとうってかわってわかりやすく、非常におもしろい。大学生になったころに『本居宣長』が出版されて、小林秀雄の代表作として評判だったので、買いはしたが読んでもさっぱりわからなかった。卒業して教員になりかけのころ、講演の録音がカセットテープで発売された。こっちは聞いて夢中になった。続編もいくつか出たがすべて買って、テープが伸びてしまうまで何度も何度も聞いた。
中で桜にまつわる話をしている。親の膨大な資産をすべて桜に注ぎ込んだある人物のことを話しつつ、我々が桜と聞いて真っ先に思い浮かべるのは染井吉野であること、それは幕末から明治にかけて品種改良されたものであり、古歌で唱われた桜とは全く別物であることをちょっと高めのべらんめえ調と言えなくもない勢いで語るのである。栽培しやすいのに目を付けた政府が学校に植えることを熱心に推奨したのだと。
「あんなものはね、植木屋と文部省が結託して広めた俗悪なる花なんだよ。」
本は読めもしないのに、講演を聞いて心酔していたぼくは、教室で三・四年生の子どもたちに語った。
「葉っぱと花が同時に出るのが山桜、あれこそほんとうの桜なんだ。染井吉野なんてあんなものはな…。」
表層部分だけだが小林秀雄が憑依しているので口調などもそのままに。話した後、三年生のTが興奮した面持ちで言った。
「先生、ソメイヨシノなんて、ぼくね、あんな花もうきれいと思いませんよ。」
桜土手を歩きながら、子どもたちにとてもすまないことをした、と毎春思う。どうかTが染井吉野も山桜も等しく愛する大人に成長していますように。