がらがら橋日記 スープ担当
料理は、これまでずっと妻に任せっぱなしにしていた。味覚もおそらく鈍い方の部類だから、自分で作りたいなどと思うこともなかった。自分がおいしいものは、だれにとっても同じようにおいしく、まずいものはみんなもまずい、それ以上でも以下でもない、と長いこと思っていた。どうもそんな単純なものではないらしいと気づいたのは、世の中には、微細な味の変化を感じ取る人がいるというのを目の当たりにしたからである。同じ物を口に入れて、ぼくが「うまい」と感じて完結しているところを、その人は何によってうまいか、なにゆえもの足らないか、何を加除すればさらによくなるか、を追わないではいられない。その加除すべき素材や調味料についても、一般名詞のそれではなく、固有名詞なのである。燻製を作るには、桜からこしらえたチップでなければならず、この肉に合わせるのは、○○産のバルサミコ酢に限るといった具合だ。
「宮森さん、何を入れたらいいかわかったよ。」
表情はややこしいパズルがついに解けたときにそれだ。
彼は、何が起きているのかよくわからないぼくの手から椀を取って、何やらつまんで入れた。
「これ、○○のとろろ昆布。どう?」
この最適解を得たことをともに喜んでくれ、とでも言うようにぼくの言葉を待つ。ぼくは戸惑いながら、最もつまらない感想をおずおずと返す。
「はあ。おいしいです。」
「でしょう。全然違うよね。」
高揚を隠さぬその人を前に、確かにおいしくはなったかもしれないけど、ぼくにとっては「うまい」の誤差の範囲です、とはとてもじゃないが言えなかった。一つの味を得るのに、手間暇をまったく惜しまぬ人がいるのだ、と驚いた。
その人は、後にパン屋さんになった。食通を満足させると評判だ。
ぼくはといえば、今は妻と分業して時間差で台所に立ち、スープを担当している。習慣とはおもしろいもので、毎日作っていると、味覚の閾値も変化してくるものらしい。レシピを見ながらどう手を加えたものか考えるようになった。一品加えるためにスーパーへ再度向かうのだって苦にならない。退職前には、こういう自分を想像していなかった。
いずれ一人で台所に立つ時が来るかもしれず、そのために料理の経験を積んでおくことが必要なのだ、と初めは思っていた。そんなことの前に、ただ楽しく生きるために必要なことだったんだと今は思う。