がらがら橋日記 定年本

 

 3月になってみると、去年の今頃はどげだったかいなあとついつい振り返ることが多くなった。退職を目前にして、煮える前のやかんのごとくポコポコといろんな感情の泡が浮かんでいたっけ。

 あれこれと定年本は読んだ。退職してからでは遅い、50になったら準備しとけ、社会とのつながりを切らすな、といった類いの。あるいは古今の思想から説いたもの。それぞれ綿密なリサーチからのアドバイスだったり、長年の思索から説いたものだったり。あまりに数が多いものだから、図書館で借りてこれぞというものがあれば購入しようと数々読んだが、結局金を払ってもいいと思えるものには巡り合えなかった。自分の置かれている状況や条件なんて自分だけのものなのだから、自分でどうにかするしかないという身も蓋もないのが結論だ。本に導いてもらおうなどと不純なことを考えた自分が愚かだった。

 それでも読んでいるときは一時的にせよ刺激を受けるのであって、そば屋を開くとか大学に社会人入学するとかまでは思わなかったけれど、一通りは夢想したものである。子どもの頃から関心をひいたものを書き上げてみよ、そこにヒントがある。などと説かれてみると、その気になってノートに書いた。小さい頃の楽しみなどずるずると引き出されるもので、確かにこいつはまたやってみてもいいか、と思うものもいくつかあった。時間はあるのだから片っ端からやってみるか、などと思うと、けっこうわくわくした。

 一年経って、それもずいぶん弱火になった。やかんの泡は底にひっついたまま上ってこない。退職してから始めたいくつかのことは、一年前の夢想とは関係がないものばかりだ。働くなり、趣味なり、何かしなければ、とあの頃いったいぼくは何に駆り立てられていたのだろう。何もしなけりゃだめになるぞ、と言わんばかりに。あせってつかみに行かなくても、したいことは向こうからやってきたり、人がひょいと与えてくれたりする。これまでもそうだったし、退職したからって変わらないとわかっていたにもかかわらず。

 退職してすぐにスープレシピの本を買った。日付と365種類のスープが載っている。ごはんとスープだけの日があっていい、という一文にひかれた。一人暮らしの父の食事を作るために、これならできそうだと思った。父は食べることなく逝ってしまったけれど、今もぼくは毎日この本とともに台所に立っている。したいことリストに料理はなかったのだが、作り続けているうちに、これはぼくにとってとても必要なことだったんだ、とわかってきた。求めていた定年本、ちゃんと購入済みだった。