専業ババ奮闘記その2 職場復帰準備②
私の家族、親族に1月生まれが多い。義姉が五日、孫の宗矢が14日(私の母も14日だった)、夫が19日、義母が28日だ。
お試し保育が始まって間もない日曜日、宗矢一歳の祝いを玉湯の家で開くことになった。寛大の時は忠ちゃんの実家の大津で、実歩の時は我が家でした。大津のジジとババは、まだ玉湯の新居を訪れたことがないというので、新居お披露目がてらの宗矢の誕生会だ。
二日前についてほぼ固まった一升餅を持って玉湯へ向かったら、主役の宗矢は寝ていた。寛大、実歩と一緒にトランプをしかけた時に、大津ジジとババがやってきた。寛大と実歩が二階にジジババたちを引き連れ、二人共、我先にと大きな声で部屋の案内をする。一通り部屋を回って降りたら宗矢が起きていた。それからは私がもっぱら宗矢の相手。餅も背負おうとしないので、誘導して何とか背負わせる。案の定、泣いた。何とか機嫌を取り、そろばんやお札、筆などが並んでいるところまで運んで行く。最初に触れたのは筆だった。で、もう片方の掌には一万円札が張り付いていた。将来はどっちに転ぶやら。
夫の誕生日には、ガトーショコラを焼いた。プレゼントは手編みのベスト。以前作ってあげたベストは、ひょっと見たら尻に敷かれていた。二度と作ってやるまいと思ったのだが、息子のセーターを編み、孫たちにマフラーや手袋を編んでいると、「俺には」というので、仕方なく編んだ。「座布団にしていいよ」と言って、手渡した。
そして、迎えた義母百一歳の誕生日。毎年、好物の赤貝ご飯を炊いて祝う。ショートステイでは、考えられたメニューで食事が出されるから、赤貝ご飯の差し入れは無理だ。面会もできないし、どうしようかと考えた末、家族三人、そして娘や孫たちからのメッセージと写真を貼った色紙をプレゼントすることにした。それと、西洋のお話に出てくるお婆さんが肩にかけている姿をイメージして編んだケープ。この日は風呂の日ではなかったので、午前中に行くと、「先ほどお孫さんが写真を持って来られました」と言われる。姪っ子たちも似たようなことを考えていたのだ。百一歳まで生きて、子や孫、ひ孫たちに誕生を祝ってもらえる人なんて、そうそういないのではないかな。