ニュース日記 815 放火殺人事件をめぐって

 

30代フリーター やあ、ジイさん。25人が犠牲になった大阪市北区の心療内科クリニックの放火殺人事件は、容疑者が死亡し、元日の新聞では現場に献花に訪れた犠牲者の同級生が「事件の真相を聞きたかった」と悔やむ様子などが報じられた(1月1日朝日新聞朝刊)。

年金生活者 仮に容疑者が快復し、警察の事情聴取に応じたとしても、私たちが理解できるような動機が語られるとは限らない。全身やけどを負った京都アニメーション放火殺人事件の被告は事情聴取に耐えられるまで快復したとき、京アニに自分の小説を盗まれたから火をつけたと供述したと伝えられている。私たちはそれを聞いて動機がわかった気になっただろうか。「なぜそんなふうに思うんだ」「そんなことであれだけの事件を起こしたのか」と逆に疑問を膨らませたのではないか。

30代 クリニック放火事件の容疑者の死亡を伝える朝日新聞は「多くの人を巻き込んで自殺しようと放火に及んだ」という大阪府警の見方を紹介している(2021年12月31日朝刊)。

年金 だとしたら、犯行の理由は京アニ事件の被告の供述と同様に、私たちの理解を超えたものに違いない。「馬鹿だね」と言われて、相手の愛情を感じる場合もあれば、侮辱されたと感じる場合もあるように、容疑者は大多数の人びとが思いやりを感じるようなクリニックのスタッフの言動に冷たさを感じたということだって想定できる。

 動機の解明を困難にしたとされる容疑者の死は同時に、動機の性質を最も雄弁に語っているとも言える。その性質とは殺人の古典的な動機である物取り・怨恨・痴情とは異なるものであり、現在の凶悪事件の動機の本流をなしていると考えることができる。

30代 容疑者宅で京アニ事件の新聞記事が見つかったと報じられた(12月21日朝日新聞朝刊)。あの事件をまねた犯行の疑いが濃厚だ。

年金 61歳の容疑者は一酸化炭素中毒で重篤な状態に陥り、死亡した。京アニ事件の被告は重いやけどを負った。ともに危機的な状態に陥った点も共通している。どちらも計画的な犯行とみられるのに、命の危険にさらされたのは、ふたりとも死を覚悟していたことをうかがわせる。

30代 京アニ事件の被告が自殺を企図していたという報道は、ネットを検索した限りでは見当たらない。

年金 タクシー運転手だった父親が仕事中に死亡事故を起こして失業し、自殺したことが報じられた。さらに、祖父と妹も自殺していたという音楽ライターの磯部涼のルポもある(「デイリー新潮」2021年7月17日)。被告にとって、自殺は身近な出来事としてあり、そのハードルはそれほど高くなかったことが考えられる。自殺は伝染もする。1986年にアイドル歌手の岡田有希子がビルの屋上から飛び降り自殺したとき、あとを追ったとみられる若者の自殺が相次いだ。被告に明瞭な自殺意図がなかったとしても、死んでもかまわないという気持ちはあったのではないか。

そう考えれば、両事件の被告と容疑者は他人を殺したくらいでは晴らせない恨み、自分をも抹殺しないと消すことのできない恨み、つまり古典的な動機の「怨恨」を超えた深い恨みを抱いていたことが考えられる。

 自分を裏切った人間たちを罰するために、大量殺戮を実行する旧約聖書の神のような存在になったような幻影を容疑者は抱いたのかもしれない。だが、幻影はいつか消える。自殺はそれを阻もうとする行動だったのではないか。死は生の個別性を脱して普遍性に移行することだ。神はその普遍性を人間に与えるいわば究極の普遍性と言える。自殺は自分で自分に普遍性を与えることだから、神の振る舞いに近いとみなされる。

30代 そんな恨みはどうしたら生まれるんだ。

年金 さっきも言ったように、患者として通院するうち、頼りにしていた医師またはスタッフの何気ない言動に、通常なら持つことのない過剰な被害者意識を抱き、犯行に及んだのではないか、と想定をするのが今のところせいいっぱいだ。

京都アニ事件の被告は京アニ作品の一部をとらえて「自分の小説を盗まれた」という思い込みを募らせたと推察される。人間は精神のバランスを崩すと、極端に他罰的になるか極端に自罰的になる。

クリニック放火の容疑者もそんな状態に陥っていたことが考えられる。そのきっかけを想像すると、たとえば、日ごろ丁寧に対応してくれている医師かスタッフがいつもとは違うものの言い方をしたのを、まるで手のひらを返したような冷たい態度に一変したと受け取ったことかもしれない。通常の精神状態なら、あれっ、と思うくらいで済むようなことだったのに、異常に他罰的になっていたことが想定される。

30代 「ブラジルでの蝶のはばたきがテキサスに竜巻を引き起こす」というバタフライ効果のたとえを思い出した。

年金 事件現場の心療内科クリニックは「オフィス街から近く、いつも多くの患者が訪れていた」という(12月18日朝日新聞朝刊)。条件が重なれば「蝶のはばたき」にもダメージを受ける可能性のある多くの現代人の精神の状況を示している。