ニュース日記 806 憲法9条改正に追い風か

 

30代フリーター やあ、ジイさん。朝日新聞の世論調査(10月19、20日)では、自民党が公約している憲法9条への自衛隊の明記に「賛成」が47%と、「反対」の32%を上回った(10月21日朝刊)。4年前の衆院選公示後の調査では賛成37%、反対40%だったのが逆転し、しかも賛成が反対を15ポイントも上回っている。この明白な変化は何に起因するのか。

年金生活者 思いあたるのはアメリカのアフガニスタン戦争での敗北だ。「撤退」という名の米軍の敗走を目の当たりにした日本国民はこの超大国の力の衰えを感じ取り、同じような戦争は二度とできないだろうと判断したに違いない。抑止力の弱まったアメリカに頼ってばかりいては、軍事的な膨張を続ける中国に対抗できない。自前の抑止力を高めるしかなく、そのためには9条で自衛隊の存在を世界にアピールすることも必要だ。国民はそう考え始めたのではないか。

これまではアメリカの戦争に巻き込まれないようにする歯止めとして9条の維持を求めてきたが、当のアメリカの弱体化でその恐れもなくなり、9条に自衛隊の3文字を書き込んでも大事には至らない、と国民は考えたと推察される。

30代 それにしても大きな変わりようだ。

年金 9条の非戦・非武装の理念は戦争そのものを忌避する戦後の日本国民のアイデンティティーの一部をなしてきた。9条の書き換えへの根強い抵抗の理由がそこにある。だが、自民党の改正案は、現行の9条1項と2項を維持したまま自衛隊を明記し、自衛権に言及するという案なので、国民のアイデンティティーをそっくり損なうものになるとは言えない。だからこそ、世論調査でも賛成が反対を上回ったのだろう。

そう考えると、安倍晋三が主導したこの改憲案は国民の意識をすくい取ったうえでの巧妙な案だということがわかる。かつて水と油をかき混ぜたような自社さ政権をつくった自民党の老獪さがうかがえる。

 集団的自衛権の行使を限定的に容認する安保法制ができた段階で、9条の新たな解釈改憲の余地はなくなり、あとは条文の直接の書き換え以外に、自衛隊に対する縛りを緩める方途はなくなった。自衛隊が明記されれば、新たな解釈改憲への道が開けることになる。

30代 自衛隊が海外に出て行って武力行使する可能性が高まるのではないか。

年金 その可能性は薄い。本質的な変化は国家権力を縛る憲法の力が9条のみならず全条項にわたって弱まることだ。

 近代の憲法は、国家の権力行使を制限し、国民の権利を守る装置であり、国民が国家に宛てた命令とされる。それは西欧での市民革命を経て誕生した。言い換えれば、民衆が自らの血を代償に戦い取ったものだ。だからこそ、国家権力を縛り、国家に命令する力を持っている。

 日本国憲法はそうではない。アメリカに押しつけられたものであり、日本国民が自らの手で戦い取ったものではない。そのぶん国家権力を拘束する力は欧米先進国の憲法に比べて弱い。たとえば、生活保護は憲法25条が「健康で文化的な最低限度の生活」を国民に保障するよう国家に命じた結果つくられた制度なのに、それを受けることを当然の権利の行使ではなく、うしろめたいことのように考える偏見が根強くあることにそれはあらわれている。

30代 それでもわが憲法は曲がりなりにも国家を縛る機能を保ってきたように見える。

年金 それは9条の存在に由来するところが大きい。この条項はアメリカが日本を軍事的に無力化するために、人類の理想を利用してつくったものだ。だが、長い戦争に生命や生活を徹底的に破壊された日本国民にとっては、戦争は金輪際いやだという自らの気持ちを代弁するものだったため、二度と戦争をするなという国家に向けた命令書として機能するようになった。

 国家に対する究極の縛りとも言えるこの非戦条項は、おびただしい流血によってあがなわれたものであり、その点で西欧の市民革命と共通する一面を持っている。それがあるからこそ日本国民は9条を自分たちのものと考え、そんな9条があるからこそ日本国憲法を自分たちの憲法と考えることができるようになった。そのことがこの憲法の他の条項にも国家を縛る力、国家に命令する力を与えてきた。

 その9条に自衛隊を明記するということは、自衛隊に対するこれまでの縛りを緩めることを意味する。それはおのずと9条全体におよび、さらに9条の縛る力に支えられてきた他の条項の縛る力も低下を免れない。

30代 国家が現在よりも自在に国民を統制することができるようになる。

年金 そうとばかりは言えない。日本国民の権利意識は憲法制定当時よりはるかに強くなっているからだ。最近それが顕著にあらわれたのが、秋篠宮の長女の結婚に対する週刊誌やネットメディアによるバッシングだ。「税金で養われているのに、国民の納得しない結婚をするのか」といった非難がSNS上にあふれた。タブー視されてきた皇室批判がここまで公然と語られたことはかつてない。王室批判を大っぴらに口にする英国民に日本国民も少し近づいたと言える。