がらがら橋日記 カブ9 写真
写真をアルバムに整理できるというのは、どういう指向や才能が必要なんだろうか、と思う。というのも、自分のアルバム作りなどついぞしたことがないし、したいと思ったこともない。どうせ見ない、とわかっているので無駄としか思えないのである。
教員という仕事をしていると、記念写真の機会は毎年確実にあり、写真も子どもたちのと職員のと配布されるのだが、もらうはしから散逸していく。いつのころからか購入するか聞かれるようになったが、正直に「いらない」と言うのも、何がそんなに不満かと思われやしないか気になって、仕方なく買っていた。それもしまいにはどうでもよくなって「いらん」と言うのも平気になった。
集合写真も当然意志薄弱である。中学生の時、なぜみんな前を向いて写っているのかにわかに疑問になって、都度カメラのある方向から目をそらしていたら、
「一人だけカメラを見ていない人がいる。それも全部の写真で。宮森君」
担任教師は、みんなの前できつい調子で言った。写真に統一感が失われてしまったのはこいつのせいだ、と公開処罰に及んだのだ。その後、配られた写真は、確かにどれもぼくだけ右や左を見ていた。なるほど、こういうふうになるのか、意外と目立つもんだ、という実験結果を得たのだったが、担任がどれほどそれを忌々しく思ったかは、自分がその立場になるまでわからなかった。幸い級友たちも、それがどうした、というふうで一切問題にせず、担任の腹立ちも共有されないままで終わった。写真全体を評価するような意識は生徒のだれも持ち合わせていなかった。
北海道に行くのにカメラを持っていくかどうか少しだけ迷ったが、ノートを一冊持参し、とどめておきたいものに出合ったら、文章で表すかスケッチすればいいと考えた。相変わらず写真には妙に構えてしまうし、第一今ほど気楽なものではなかったので。
結果、ノートには、いくつかのスケッチと日記が残った。写真は、旅行中出会った青年が同情して撮ってくれた一枚だけだ。それで十分だった。そのノートを後で見返すことはほとんどなかったし、一枚限りの写真もとっくに紛れてしまった。だからカメラを持って行ったとしても同じことだったのだ。今でもスケッチした昭和新山、洞爺湖、摩周湖などは、昭和五十四年のそれを隅々まで思い描くことができる。それをねらったわけではないので、まったく結果的に。
時間などどうでもよかったあの時の旅は、望んで得られるほど安価なものではなかったのだ、と一枚も持たぬ写真が教えてくれる。