がらがら橋日記 カブ8 怪談
小泉八雲の怪談が好きで、教員になってからずっと読み聞かせを続けた。怖がらせるためにグロテスクな部分を強調したような話だったら鼻につくが、八雲のそれは薄からず濃からずの絶妙な加減で、切なくも背筋の凍る怖さは唯一無二だと思う。
授業が早く終わるとか、予定が急遽変更になるなどして隙間の時間ができたときなど子どもたちから怖い話をねだられる。物語好きの多い学級だと授業そっちのけで要求してくるので、「怖い話してください」「できるわけないだろ」「ハハハッ」というのが授業始めのあいさつ代わりになったりする。
小泉八雲の怪談はトリだ。つなぎの話をいくつかしてから真打ちに登場してもらう。そのつなぎには、自分の体験談や聞いた話、イギリスやイタリアの民話などを使ったが、これも続けているうちにこなれてくるのはおのずと絞られてくる。話にも相性があるのだ。
体験談でよく使ったのが、函館二泊目、旅館での出来事である。あまりに快適でテント泊が嫌になってしまい、あれこれ理由を付けて同じ旅館に連泊することにしたのだった。
二日目、部屋を移ってくれと言われ、一階から二階の部屋に変わった。満室でもないし、同じような部屋であるのになぜなのか不思議だったが、断る理由もない。一日函館を回って早めに床についた。
深更、ふと目が覚めると、通りに面した障子窓の向こうでガラス窓と瓦屋根をパラパラと雨が軽く叩いている。窓のすぐ外で男女の話し声がした。男はすがるように懇願し、女は吐き捨てるようにそれを断っている。わずかにやりとりが続いた後、闇を切り裂くような悲鳴が響いた。同時に雨がにわかに激しくなって、二人の声もその中に消えていった。
すっかり目覚めていたのに、なぜかぼんやりした気分でぼくはそれを聞いた。起き出して障子を開けてみることもしなかった。しばらく今の出来事に思い巡らせたが、不審とか恐怖の感情は湧いてこず、やがてそのまま寝入ったのだった。
翌朝の朝食の際も、ほかの宿泊客、従業員だれもまったく何事もなかったようにしていた。ぼくは、あれは何だったのかうっすらと引っかかったままだったのだが、結局だれにも聞かぬまま旅館を後にした。
二人の声が二階の窓のすぐ外、つまり、通りの上の空中というあり得ない場所から聞こえてきたことを思うとなかなかの異常ぶりだった。
これまで散々子どもたちへのネタにさせてもらったけれど特にバチが当たった形跡はない。小泉八雲が浄化してくれているのかもしれない。