ニュース日記 795 「自己否定」で延命をはかる資本主義
30代フリーター やあ、ジイさん。脱炭素に取り組む企業に投融資する金融機関に対し、日銀が資金を長期にわたって金利ゼロで貸し出すことにした、と報じられている(7月17日朝日新聞朝刊)。
年金生活者 現在の資本主義が脱炭素を有力な利潤の源泉にしようとしていることを示す動きのひとつだ。
これに対しては「やや慎重さを欠いているのではないか」と話す日銀幹部もいる、と記事は伝えている。政府の役割である気候変動対策にまで手を出すのは、物価と金融システムの安定という日銀の本来の使命からの逸脱ではないか、という疑問の表明だ。言い換えれば、日銀は市場原理の安定的な作動を制御するのが役割なのに、気候変動対策という市場原理の外の課題を抱え込むのは、市場を乱すことにつながらないかという疑問と言ってもいい。
それでも「気候変動は中長期的に経済・物価・金融情勢にきわめて大きな影響を及ぼす」として今回の政策決定に至った、と記事は報じている。
30代 無理な理屈づけにも聞こえる。
年金 これまでなら、市場原理に反するとして市場への持ち込みが制限されていたことも、市場に積極的に取り込んで、新しい段階の市場法則のシステムを形成する方向に資本主義が向かっていることを示していると受け取ることは可能だ。
市場原理に反する代表的なものは国家原理だ。前者が自由な競争を前提としているのに対して、後者は平等な分配を建前とする。前者を従来のまま貫こうとする限り、コストのかかる脱炭素は実現不可能と言っていい。実現しようとすれば、国家原理にもとづく富の再分配によってそのコストを負担するほかない。いま世界の諸国家はそれを逃れられなくなっている。政治的な機運がそれを強いているからだ。
資本主義はそこに目をつけた。先進国を中心としたゼロ金利、マイナス金利が示すように利潤の源泉の縮小を余儀なくされている現在の資本主義は、脱炭素のための国家による富の再分配を新たな利潤の源泉に加えることをもくろみだした。
ゼロ金利、マイナス金利がその再分配を支える。国家はいくら借金をしても、財政インフレを招く恐れがない限り、脱炭素のコストを負担することができる。つまり企業の脱炭素の取り組みに補助金を出すことができる。企業にとってはそれが利潤の源泉となる。
30代 それは自由競争の過程にそれを妨げる要素を介在させることになる。
年金 柄谷行人は歴史を、支配的な交換様式の変遷とみなし、互酬による交換様式A、略取と再分配による交換様式B、商品交換による交換様式Cの順に、支配的な交換様式が移り変わってきたと考えた。さらに、Aが支配的だった時代よりさらに前の時代、すなわち定住社会ができる前の遊動的な狩猟採集の時代に支配的だった交換様式として共同寄託を想定している。
脱炭素への政府の補助金を利潤の源泉とするということは、Cの様式にBを組み込むことであり、歴史を部分的にせよ後退させることを意味する。いま資本主義は脱炭素に限らず、諸場面で同様の後退の動きを見せている。Bへの後退だけでなく、Aへの、そして共同寄託への部分的な後退だ。
たとえばクラウドファンディングはAへの後退であり、贈与の復活と理解することができる。「寄付型」「投資型」「購入型」の3つに大別されるクラウドファンディングのタイプのうち「寄付型」がそれに相当する。
モノやサービスを共有して利用するシェアリングエコノミーは共同寄託への後退と考えることができる。柄谷は交換様式A、B、Cのほかに、歴史上は存在したことのない交換様式Dを想定し、それを共同寄託の高次元での回復と考えている。現在のシェアリングエコノミーはDそのものではないが、Dの模型とみなすことができる。
いずれも過去の時代に支配的だった交換様式への部分的な後退である以上、それらは資本主義の部分的な自己否定と言える。
30代 米民主党左派の下院議員アレクサンドリア・オカシオ=コルテスらは脱炭素とMMT(現代貨幣理論)を直結させた政策を主張している。温暖化と格差に対処するため、財政赤字の拡大を唱える「グリーン・ニューディール」だ。電力の100%再生可能エネルギー化や労働者の最低賃金保障を、富裕層への課税強化のほか政府の借金でまかなうことを主張している。
年金 MMTは、財源を確保するには通貨を発行しさえすればいいという理論なので、まるで打ち出の小槌のような主張に聞こえる。だが、無から有を生むことができると主張しているわけではない。そう見えるのは、貨幣をモノやサービスのような実体のある富とみなすからだ。
MMTは貨幣を富ではなく、富を流通させる手段に過ぎないと考える。だから、富がなければ、政府がいくら貨幣を発行しても、言い換えれば、いくら借金をしても、富が社会に行き渡ることはない。つまり、富の稀少性の縮減が現在ほど進んでいなかった時代には、この理論はリアリティーを持たず、異端の学説にとどまっていた。だが、資本主義の高度化とテクノロジーの発達がそれを変えた。