がらがら橋日記 カブ5
この夏、山形と秋田の県境にある鳥海山に行った。登山の前後は、酒田のビジネスホテルに宿泊した。さすがに東北となると、移動してすぐの登山というわけにはいかなかった。松江から酒田まで千キロを超える。早朝から三交代で運転し、高速道路を乗り継いで到着したのが夕刻だった。途中新潟と山形の境で高速道が途切れるため国道をしばらく走った。
家、バス停、町工場、店、にわかに道の両側が人臭くなり、無機質な高速道に退屈していた気分が紛れた。左に日本海を見ながら北上していくのだから、これはカブで走っているはずだと気づく。何やら見覚えがあるような気がしてくるのだが、海端の町はどこもよく似ているので、確かな記憶ではない。でも、それにひきずられて思い出すこともある。
「はい、これ。」
バイト先の寿司屋で板前さんから渡されたのは、ビニール袋にどっさりと入った百円玉だった。両手で包むようにして持ちながら、腑に落ちないでいるぼくを見て取ると、
「餞別だよ、餞別。百円玉だったら使いにくいだろ。この方が無駄遣いせんわと思ってな。」
まかないのおばさんが笑いながら言った。
「そげん、自販機でなんぼでも使えーがね。」
「あっ、そげか。そら、考えんだったわ。」
北海道にバイクで行くとは言っていたが餞別をもらえるとは思いもよらず、そもそも旅に出る者に金をくれること自体新鮮だった。うれしかった。
どっさりの百円玉は、自販機ではそれほど消えなかったが、国道沿いの公衆電話ボックスで重宝した。一日に一度は、家族か友人にかけた。
一度、浪人中のKにかけた。今どこにいるかと聞いたので、「大雪山だ」と答えた。ずっと後、Kはバックパッカーとなって世界を回った。帰国したときに会ったら、
「お前の大雪山の一言で、世界に行くと決めた。」
と言った。
旅も後半になると百円玉も乏しくなり、電話をするのが面倒にもなって、ずっとかけないでいた。母が倒れるほど心配していたのを知ったのは、帰宅したときだった。
四十八年後の国道は、それほど変わっていないように思える。ただ、電話ボックスはことごとく消え、ぼくのポケットの中には携帯電話がある。旅する者が心配することもさせることもなくなった。それは、進歩であるには違いない。でも、何だか高速道路にも似てどこか殺風景だ。