がらがら橋日記 カブ3

 北海道へは、日本海側を北上する形で五日間かけて入った。金沢には、中学校の同級生がいたので、そこで一日泊めてもらった。予備校生とその家族にとって大事な一日を邪魔されるのだからさぞかし迷惑な話だったろうが、そんな気遣いができるようになるのはずっとずっと先の話だ。

 洗濯してあげるから、と同級生のお母さんに言われるまま、それまで二日分の下着やTシャツを差し出した。翌日、きれいに畳まれたそれらを受け取ったが、洗濯機の中が真っ黒になった、と笑われた。汗の汚れももちろんだが、一日中排気ガスを浴び続けた結果である。今でこそ見ないが、四十年前のトラックと言えば、黒々とした排気ガスをふんだんにまき散らしていた。上り坂ともなれば目の前がかすむほどだった。中には大きくよけてくれるトラックもあった。排ガスを浴びせるには忍びないと考えてくれたのかもしれないのだが、そんな善意にとれるようになるのはこれまたずっとずっと先の話で、

「ぼくのことがそんなに邪魔か。」

と一人毒づいたりしていた。

 同級生は受験勉強を一休みし、金沢の町を案内してくれた。晩ご飯をごちそうになった後は、お気に入りのレコードをかけてもてなしてくれたのだが、当時人気のあった喜多郎のアルバムだったので、何度つつかれてもすぐに眠ってしまった。

 その前日、旅の初日は敦賀で日が暮れた。勘を頼りに国道沿いの小さな集落に下り、何軒か泊めてくれるところを訪ね歩いた。また雨が降ってきた。

「区長さんに聞いてよ。」

 だれも決めかねるようで、言われるまま区長を訪ねて頼んでみた。少し先のお堂ならだれもいないからいいだろうと言ってくれた。

 電気もなく真っ暗な社殿に懐中電灯を頼りに寝袋を敷いた。これも今思えばではあるが、梅雨明け前だったらしく、出発直後から雨に降られていた。旅の最初から最後まで気象情報を一切気にしなかったのだが、それは単に発想がなかっただけのことだ。

 社殿に転がり込むのと同時に、一気に雨脚が強くなり、遠雷も徐々に音量が増していった。やがてフラッシュをたいたように堂内が明るくなったかと思うと耳をつんざくような雷鳴がとどろいた。天井をぐるりと囲む彩色の地獄絵が見えた。稲妻は何度か堂内をほの白く浮かび上がらせた。こんな趣向で絵画を鑑賞できたのもどんなに幸運なことであったかと、今では神仏に感謝するのだが、もちろんそのときは生きた心地もせず、翌朝まだ暗いうちに敦賀を後にした。