がらがら橋日記 カブ

 高校の卒業を前にして、バイクでの一人旅を思いつき、近所のバイク屋で最安値だった七千五百円の原付カブを買って奈良まで走らせた。東大寺のお水取りを見たくて祭りの日の早朝に出かけたのだが、早春のツーリングがこれほど寒いとはまったく想像していなかった。途中雪のちらついていた国道9号線をひたすらに走って奈良に着いたときには、すっかり凍えて歯の根も合わず、見かねて旅館の女将さんが早めに風呂に入れるようにしてくれたのだが、一時間浸かったにもかかわらず、上がってからも震えが止まらなかった。お水取りなんぞどうでもよくなって、ひたすら布団にくるまって暖を取った。その日から一週間奈良を回った。再度低体温症の危機を感じつつも、どうにか無事に帰った。

 なぜ奈良だったかといえば、日本史の教科書に登場する寺だの人物だの宝物だのに強く心ひかれていたからである。法隆寺、聖徳太子、止利仏師、漆胡瓶…どれもこれも古代に通じる呪文のようで、ただただそこに近づきたかった。

 自分がそこにいる、と実感することこそ旅の全てで、あとはおまけみたいなものだと思うのだが、どのようにしてそこに至ったかによって、実感の強度もまた違ってくる。低体温症や交通規則だけじゃない、あれにもこれにもまったく無知であったのは、決してほめられた話じゃないのだが、無知が実感を補強してくれたのはまちがいない。

 観光客の途絶えた東大寺戒壇院で、国宝四天王像とたった一人で向き合った。目の前にあるのは、教科書で何度も見てよく知っている像そのものだ。でも、今自分を包んでいる空気はまるで違う。こんな純度の高さは今まで感じたことがなかった。その場を離れがたく、ようやくにして出たのだが、すぐに惜しくなってもぎりのおじさんに、また見たいのですが、と頼んだ。総白髪のずんぐりしたおじさんは、にっこり笑ってうなずいた。

 その日どこに行くのか、どこで寝るのかも決めない旅をずっとしていない。どうせなら退職してから気ままに行きたい、と取っておいた候補地が膨れ上がっている。ところが、いざ退職してみたらコロナ禍で重石につながれるという残念な状況だ。ただ妄想は、勝手に動き出してあれこれアイデアを押しつけてくる。再びカブでの一人旅はどうか、と調べてみたら少女とカブが主人公の漫画もあって、人気になっているではないか。恥ずかしいようなカラバリも出ている。

 四十数年前、「それで来たの?」と散々言われたものだったが、ちと最先端過ぎたか。