がらがら橋日記 かたづけ4

 使うかもしれない、とか、取りあえずとっておく、という発想厳禁を自分に課した。必ず使う以外は捨てる、を貫いた。新しい古い、高価廉価の別はまったく無視した。ネットで競売にかける手立てがあることも知ってはいるが、それにかける手間が惜しい。ここは非情に徹して、売れるかも、と思う物は捨てるに分類した。ちょっとでも迷いが生じたときは、「自分はよいとしても、子や孫たちはどう思うだろうか」と問うた。何も知らない子どもたちが、これはなぜ取ってあったのだろうか、と疑問を感じるかもしれないと想像できたときは、捨て組だ。

 これまで安閑とのさばっていた物たちは、主人が代わった途端に粛清の嵐に巻き込まれたのである。

 大量処分を断行するのは二度目、前回は母の亡くなった後だったのだが、そのときは単に不用品を捨てるとしか考えていなかったため、今思えばはなはだ不徹底だった。今回、いかなる物が残っているかをすべて把握できるまで絞り込めたのは、グラフィックデザイナーの原研哉氏の文章に出会ったことが大きい。たまたま『日本のデザイン』(岩波新書)を読んでいたら、「家」をテーマにしたエッセイがあった。

「現在の住まいにあるものを最小限に絞って、不要な物を処分しきれば、住空間は確実に快適になる。試しに夥しい物品のほとんどを取り除いてみればいい。おそらくは、予想外に美しい空間が出現するはずだ。」

「ものを最小限に始末した方が快適なのである。何もない簡潔さこそ、高い精神性や豊かなイマジネーションを育む温床であると日本人はその歴史を通して達観したはずである。」

 読書の喜びを感じるのはこういう時だ。自分の目的がまずあって、それがために選んだ本から知識なり技術なりを得るのもうれしいが、それは意外性がない分だけ喜びは減じる。偶然に読んだ一節に、これは今の自分に向かって語られていると驚くとき、その本との出会いの妙も含めて最上の喜びが得られる。図書館の展示コーナーでふと気になって手にし、日本人の美意識を応仁の乱から説く書き出しに興味が湧いて借りて帰ったのだった。

 ぼくにとって物を捨てることが、不用品の処分から、空間や簡潔さの創造に変わった。妻に、取り憑かれていると呆れられ、処分場のおじさんたちに「毎日来る」と笑われても、ちっとも苦にならなかったのは、皮肉なことだけれども、捨てることが作ることになったからである。

 何もなくなった玄関に、妻が裏庭から摘んだ真っ赤なバラを一輪挿しに生けて置いていた。