ニュース日記 785 皇室の権威が低下した
30代フリーター やあ、ジイさん。秋篠宮文仁の長女・眞子との婚約が内定している小室圭への週刊誌のバッシングが止まらない。
年金生活者 皇室の権威の低下がここまであらわになったことはかつてない。天皇制の基盤にある水稲耕作が資本主義の高度化によって稀少産業に近いものになっていることを背景として考えないわけにはいかない。
30代 先日の朝日新聞の朝刊に掲載された週刊女性の広告にはこんな言葉が並んでいた。「小室圭さん(29)眞子さま(29)との新婚生活で――1年目だけで看過できない税金『3億円』乱費」(5月25日号)。まだ結婚してもいないのに、もう「乱費」したかのような書き方は芸能人に対してさえしないのではないか。皇室相手なら名誉棄損で訴えられる心配もないと踏んでいるのか。
年金 以前なら皇族の婚約内定者をたたくことは、皇族をたたくことに等しいとみなされ、タブー視されたはずだ。それが今は皇族本人までたたくところまでエスカレートしている。週刊文春のウェブサイトには「『甘いのよ』 小室圭さんを叱った 眞子さま暴走愛<全内幕>」(5月6日・13日号)との見出しが広告として掲載されている。
資本主義の高度化は選択的消費が必需的消費と肩を並べる消費の過剰化をもたらし、それが国家から個人への権力の分散を促した。そのぶん天皇の権威も低下した。現天皇は戦争を遂行した昭和天皇のような威厳もなければ、平和を追い求めた前天皇のような能動性も見られない。本人は右にも左にも偏らないニュートラルな姿勢を目指しているように見え、それが軽みにつながっている。
英国王室の内情をあばく大衆紙の記事のような週刊誌の皇室たたきは、国家から分散した権力を手にして相応の処遇を求めるようになった国民が、そのぶん皇室を相対化して見るようになり、かつてほど崇めなくなったことをあらわしている。
30代 バッシングに動じる様子もなく、おのれの考えを貫こうとする小室は見上げたもんだと言えば言える。
年金 彼の皇室を忖度しない態度もまた、皇室の権威の低下が背景にあるということだ。もし小室と同じような立場に立たされたら、たいていの人間は母親の金銭トラブルをさっさと片づけようとするだろう。皇室の名を汚してはいけない、と。だが、小室はおのれが正当であると信じる部分は譲歩しない。そこには皇室なにするものぞという構えがうかがえる。彼のそんなところに眞子は惹かれたのではないか。
30代 ジイさん、皇室の権威の低下の背景に水稲耕作の縮小があると言ったな。
年金 今の天皇はそれに強い危機感を抱いていると推察される。皇太子時代に国連の「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任するなど、世界の「水問題」に取り組んでいるのはそのあらわれと理解することができる。
水稲耕作が稀少産業に近づいていくのはもはや止めようがない。水稲を守れ、と訴えても耳を傾けるのは少数でしかない。それなら「水稲」の問題を「水」の問題に拡張して「水を守れ」と訴えれば世界的な普遍性を獲得し得るはずだ。それが水稲を守ることにもつながる。彼はそう考えていると想像できる。
30代 世界の空気を読んでいるわけだ。
年金 「人々の願ひと努力が実を結び平らけき世の到るを祈る」
今年の歌会始で紹介された現天皇の歌だ。まるで小中学生から募集した何かの標語のようなこの作品は、凡庸に徹することによって自らの存在感を抑えることを「象徴」の務めとしようとする意志を感じさせる。
「学舎(まなびや)にひびかふ子らの弾む声さやけくあれとひたすら望む」(2020年)
天皇就任後初の歌会始で披露されたこの作品も凡庸だが、今年の歌はそれに輪をかけ、洗練すら感じられる。前天皇や昭和天皇の作品と比べて読むと、天皇家に伝わる慣習への抵抗ではないかと思えるほどだ。
30代 先代、先々代の歌とどう違うんだ。
年金 前天皇の現役最後の歌と、昭和天皇の存命中に開かれた最後の歌会始の作品は次のとおりだ。
「贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」(2019年、前天皇)
「国鉄の車にのりておほちちの明治のみ世をおもひみにけり」(1988年、昭和天皇)
皇統を守るために「象徴」を受け入れた先々代は新たな衣裳を身にまとっても、敗戦前の帝王の風格を覆い隠すことができなかった。そのことは、本人が公には何も言わなくても、戦後政治に復古的な要素を忍び込ませる要因になったと思われる。
そうした「象徴」のあり方を変えようとしたのが先代だった。戦地への慰霊の旅を繰り返し、日本国憲法の順守を誓い、事実上の改憲反対のメッセージを発した。そうした歩みを生前退位で締めくくった彼の振る舞いもまた、ベクトルは昭和天皇とは逆向きでも、戦後政治を左右することになった。
こうした2代にわたる復古と進歩の間の振り子のような動きは、現天皇にその揺れを止める役割を与えたと考えることができる。「象徴」の振る舞いが政治性を帯びるのを打ち消す役割と言い換えてもいい。それは歴史の進歩と言える。