ニュース日記 784 2021年の日本国憲法

30代フリーター やあ、ジイさん。今年の憲法記念日も総理大臣が改憲派の集会にメッセージを寄せた。自民党が憲法9条に自衛隊の名を書き加えたがっているのは戦争をできるようにしたいからだ、と左派、進歩派から批判されている。

年金生活者 戦争を左派や進歩派が想定しているような破壊と流血をともなう熱い戦争、リアルな戦争ではなく、抑止力を競い合う冷たい戦争、バーチャルな戦争と考えれば、彼らの批判もまったくの的外れではない。9条は熱くリアルな戦争ばかりでなく、冷たくバーチャルな戦争も禁じる、世界で最も先進的な非戦条項だからだ。

 自民党のやりたがっている戦争が熱い戦争ではないのは、それを遂行する意志も能力も胆力もないという理由からだけではない。世界の戦争の本流が東西冷戦を境に、熱い戦争から冷たい戦争に移り、超大国のアメリカでさえアフガニスタン、イラクの両戦争のあと、熱い戦争をほとんどできなくなっているからだ。

 破壊も流血もないとはいえ、冷たい戦争が否定されなければならないのは、軍事技術の絶えざる高度化によって、過去最大の熱い戦争だった2度の世界大戦よりも膨大な軍事費を消尽し、民衆の生活を圧迫していると推定されるからだ。そればかりではない。冷たい戦争がいつ熱い戦争に転化するかわからないという不安は民衆の精神を圧迫している。

30代 尖閣諸島に中国公船が執拗に接近する今、そうとばかり言っていられなくなるのではないか。

年金 尖閣諸島をめぐる日中の対立は「棚上げ」によってしか解消できないのに、両国はそれからますます遠ざかりつつある。

 この状態がエスカレートすれば、最終的には武力による決着しか解決方法がなくなる。しかし、世界の戦争の本流が熱い戦争から冷たい戦争に移った現在、実際にそれを実行するのは不可能に近い。

 そうなると、双方が行使を封じられた武力を威嚇に使う状態が続くことになる。それは冷たい戦争が偶発的に熱い戦争に転化する危険をともない、両国や周辺国をはじめとした諸国民に無用な緊張を強い続けるだろう。

 それを避けようとするなら、武力による威嚇を双方ともやめなければならない。日本国にはそれを積極的に主張するよりどころがある。それが「武力の行使」だけでなく「武力による威嚇」を永久に放棄することを宣言した憲法9条だ。

 中国は9条を日本の軍事大国化の歯止めとして評価してきたはずだ。だったら、あなた方もこの9条の理念にしたがって矛を収めたらどうか。そう言える根拠を日本は持っている。

30代 逆にアメリカは自らが押しつけた9条を邪魔者扱いしている。

年金 アメリカの元国防長官ウィリアム・ペリーが、核兵器禁止条約を「支持する」と朝日新聞で語っている(5月9日朝刊)。現役を退いたことが、現在の米国の核政策を超える、先進的な視点を彼に取らせたと思える。

 ペリーは2007年1月、ジョージ・シュルツ(元国務長官)、ヘンリー・キッシンジャー(元国務長官)、サム・ナン(元上院軍事委員長)と連名で核兵器のない世界を目指すべきだとする論文を米紙に発表している。

 政権の中枢で国防政策を担っていた現役時代は、世界の国々を敵か味方かという視点から見ることを強いられていたのに対し、リタイアしてからはそうした視点から解放され、世界をニュートラルにとらえ得る視点を獲得した結果と考えられる。世界を水平的、短期的にしかとらえられなかった制約から逃れ、俯瞰的、長期的にとらえることができるようになり、核兵器禁止条約の未来性に気づいたと推察される。

 この条約はわが憲法9条の核兵器版であり、人類が戦争に向かって漂流を始めないように、人類自らが世界史の流れの中におろした理念の錨にほかならない。

30代 立憲主義の立場からは、憲法は国民が国家に宛てた命令書、国民が国家を縛る装置と考えられている。その憲法に逆に国民を縛る義務が書かれているのはなぜなんだ。

年金 国家を縛るためには、国家に縛られる必要があるからだ。

 憲法の目的をひとことで言えば個人の自由を確保することにある。ニュートンの運動法則のひとつ作用反作用の法則をたとえに使っていうなら、自由を確保しようとすれば必ずその反作用として不自由を強いられる。自由を理念とする近代国家はその自由を犯罪や侵略から守るために、自由を抑圧する警察や軍隊を必要としている。

 日本国憲法は国民の3大義務として、教育、勤労、納税の各義務を定めている。国家に命令を発するには、それに見合う知識が必要だ。知識を獲得するには教育を受けなければならない。命令を実行させるには、そのための費用が要る。それは国民が働いて負担するしかない。

 富の稀少性が消滅した理想社会を想定するなら、憲法というのは過渡的な仕組みであることがわかる。富があり余るほどある社会なら、子供に教育を受けさせるかどうか、働くか働かないか、といったことは個人の自由に委ねても、他人の自由を侵害することはないし、公的な事業に必要な費用を強制的に徴収する必要もないからだ。