がらがら橋日記 かたづけ2

 毎日ごみ処分場に通ううちに、そこのおじさんたちとも顔なじみになり、軽口を叩かれるまでになった。

「もう、説明せんよ。毎日来ちょうなあけん。」

 おじさん、半笑いである。

「まだまだ。当分通うから。」

「だけど、大変でしょう。お金かかるし。」

 こちらの懐具合まで心配してくれるとは。確かに自家用車でこつこつと通うよりは、簡単な方法がいくらでもありはする。

「そりゃそうだけど、業者に頼んだらもっとかかるでしょう。」

「まあねえ、でもねえ。」

 おじさん、くたびれやせぬかと気を遣ってくれるのである。苦笑いしかない。

 ぼくと同じく今年教員を定年退職した友人が、やはりずっと懸案だったらしく、退職直後から家のかたづけを始め、「五百キロ捨てた。」とメールをよこした。その量にびっくりした。

 妻がネットのブログから見つけたのだが、ある断捨離で著名なエッセイストがやはりぼくと同じ状況で実家のかたづけをし、親の遺品を千キロ捨てた。もっとびっくりした。

 ぼくも、いくら処分したのか気になったので、処分場で発行される領収証で計算してみた。毎回何キロ処分したのか記録されているのである。総量で一トンを優に超えていた。なぜか恥ずかしかった。

 捨てるという発想を持たず、ため込めるだけため込む。家は、そのための物置にする。贈り物文化がそれに追い打ちをかける。昭和の終わりに公務員を退職した父に贈られた数々の退職記念品、そのことごとくが重く大きい。なぜ、手のひらほどの時計を何キロもある木に埋め込んで飾り物にしなければならないのかまったく意味がわからない。父が普段頼りにしていた時計は、数百円の目覚ましなのに。ぼくが退職したときに貰ったものが一枚の感謝状であったことを思うと、昭和と令和の違いにくらくらとしてくる。

 世を挙げて物を作り、買い、贈り、ため込み、その物の終末など知ったことか、という時代だったのだ。感心もするが呆れもする。自分だってため込む片棒を担いでいるのだから、他人事にはできないし。

 選別していてもらちがあかないので、父の重厚な退職記念品の数々も捨てさせてもらった。公平を期すために、ぼくの持っている捨てられなかった重厚な物も捨てた。あの世でそんな言い訳を聞いてくれるかどうかはわからないけれど。