ニュース日記 782 脱炭素へ走る資本主義

30代フリーター やあ、ジイさん。菅義偉が2030年度の温室効果ガスの削減目標を現在の2013年度比26%から46%に引き上げると表明した(4月23日朝日新聞デジタル)。ホンダはその翌日、エンジン車を2040年までに全廃すると発表した(4月24日朝日新聞朝刊)。世界に遅れを取っていた日本の脱炭素を加速する動きになるだろうか。

年金生活者 ホンダの発表は世界の主要自動車メーカーの路線に歩調を合わせた転換で、ガソリン使用を捨てないトヨタが世界のトップメーカーの地位を退く前触れになるかもしれない。現在の資本主義は脱炭素を新たな、そして大規模な利潤の源泉にしようとして走り出しているからだ。

30代 かつて環境保護を経済発展の足かせのように扱っていたのに、たいした変わりようだ。

年金 資本主義は利潤をあげるために、常に辺境を必要とする。辺境と開発地を結びつけ、両者の格差を利潤として搾り取る。商業資本主義は遠隔地という辺境と、開発された近接地とを貿易によって結びつけ、両地域の商品の価格差を利潤として手にした。産業資本主義は農村という辺境と、都市という開発地とを工業化によって結びつけ、両地域の労働力の価格差を利潤の源泉とした。

 だが、地球上の辺境は有限だ。今や残り少なくなり、大きな利潤を期待できるほどもうない。そこで資本主義が選んだのが、地球上に広がった開発地を逆に辺境として扱うことだ。それが脱炭素への転換にほかならない。資本主義に意志があるとみなす言い方をするなら、そういう理解が成り立つ。

 そうなると、資本の時間の流れも逆転する。利潤が生まれるのは資本が現在から未来に向かってその価値を増殖するからだ。それは未開発から開発へと向かうことでもある。これに対して、脱炭素はまだ使える化石燃料の技術を大量に捨てるわけだから、開発から未開発へと向かう側面を有している。それは資本が縮小することを意味し、いわばマイナスの利潤を生むことにほかならない。

30代 脱炭素は利潤の源泉どころか損害の源泉になる。

年金 そのマイナス分を埋め合わせ、さらにそれに上乗せしてプラスの利潤を手にするために、資本主義が狙ったのが、各国に脱炭素政策を一斉に採らせ、そのための補助金などを国家財政から支出させることだ。それがいま利潤の原資として期待されている。その期待を生んでいるのは、資本主義の高度化とテクノロジーの発達が加速する富の稀少性の縮減だ。

30代 国家による介入を市場が嫌う時代もあったのに。

年金 辺境と開発地の逆転は脱炭素がやかましく言われる以前から始まっていた。それがイノベーションを利潤の源泉とするポスト産業資本主義への移行だ。それまでの産業資本主義が、辺境としての農村と、開発地としての都市との格差を利潤の源泉としていたのに対し、ポスト産業資本主義は、既存の技術体系を辺境とみなし、それとそれを超える新しい技術体系との格差を利潤の源泉とするようになった。

 脱炭素はそれをさらに進めて、ガソリン車を生産する既存の技術体系を単に辺境とみなすだけでなく、国家の規制によって人為的に辺境に変容させる。各国の二酸化炭素の削減目標が達成可能な数値かどうか、達成されたとしても地球の温度を目標通り下げられるのかどうか、そんなことはおかまいなしに、資本主義は脱炭素路線を突き進むだろう。

30代 その先に出現するのはどんな社会だ。

年金 脱炭素の推進は、モノをつくる産業をいま以上に衰退させ、モノをつくらない産業を拡大するだろう。

 モノをつくるのに要するエネルギーの大半は化石燃料で占められている。脱炭素の実現にはエネルギー消費を抑えなければならない。そのためには、モノづくり産業を減らし、代わりにエネルギーをあまり使わない産業、とりわけITを中心とした産業を増やすしかない。それは「産業のソフト化」を通り越した「産業のバーチャル化」と呼ぶことができる。

 経済学者の池田信夫は、日本自動車工業会会長の豊田章男(トヨタ自動車社長)が記者会見で「今のまま2050年カーボンニュートラルが実施されると、国内で自動車は生産できなくなる」と指摘したことをとりあげ、このままだとトヨタは日本から出て行き、その日は日本の製造業が消える日になる、と書いている(「トヨタは日本から出て行くのか」、アゴラ、3月13日)

 これまで資本主義は脱炭素、カーボンニュートラルと関係なしに、モノをつくる産業から、つくらない産業へとその牽引車を切り替えてきた。その結果、エネルギー消費量が減少に転じていることを池田が指摘している。IT産業の急成長で資本主義の「脱物質化」が加速し、日本では2000年代前半にエネルギー消費はピークアウトした、と(「資本主義の『脱物質化』で人類の未来は明るい」、アゴラ、1月1日)

 これから先、さらに脱炭素が進めば、地球の温度は体に感じられるほど下がることはなくても、世界の産業の様相は目に見えて変わるだろう。それは人びとの生活の利便性が増すことを意味する。