がらがら橋日記 後始末
まるでぼくの退職を待っていたかのように父が倒れ、一週間もしないうちに逝ってしまった。母の時とは違い、世帯主の手続きはそこそこややこしかったので、しばらくは市役所に通ったり、仏事の準備やら片付けをしているうちに、気がつくと半月が過ぎている。
父の具合がよくならず、朝救急車で病院に運んだ。しばらくしてドクターに呼ばれた。レントゲン写真を前にして、
「助かりません。覚悟しておいてください。」
と言われた。ぼくはまったくそれを想定していなかったのでうろたえた。涙が出てきた。悲しみは、動揺とセットのようだ。やがて静まったら、寂しさか何かと置き換わってしまうのだろう。
父は、四日目の日が変わるころに息を引き取り、その朝には葬儀屋さんが遺体を運びに来た。病院から渡されたのは、小さなプラスチックの手かごに詰めた入院グッズだった。死ぬときの持ち物なんてこんな程度だ。ベッドも酸素マスクも物々しい機械もみんな借り物で、自分の物など入れ歯とか眼鏡ぐらいなもので、ほとんどありはしない。
施設に入っていた母の場合は、父よりは多かったが、それでも段ボールに一つか二つだった。一生の始末をつけるのに必要な物なんてそれだけなんだ、と思った。
家の中にこれでもかとため込まれた物という物は、そのほとんどが一度も箱や袋から出されることのないまま持ち主は逝ってしまった。その始末は、そのままこっちの手に渡った。それは、物を持ちたいなどという気持ちをすっかり萎えさせてしまうのに十分だった。ぼくは、それまで買うのが大好きだった本さえまったく買わなくなった。
父も母と同じく、捨てるという発想のない人だったので、残した物はどっさりとある。途方に暮れながら、子どもたちがかたづけねばならぬということをせめて一度なりとも想像していますように、と故人を恨みがましく思う。
所有物に囲まれていることが快適だった親世代の反動もあってか、ぼくたちは借りる手段を発達させ、簡便に購入する方法を次々と手に入れている。次の世代であるぼくらの子どもたちは、やっぱり親の物との付き合い方にいらついたり、がまんしたりして、またちがった快適さを求めるのだろう。
前後の世代には申し訳ないけれど、ぼくたちはぼくたちの快適さを求めさせてもらいたい。そうして今日もまた、かたづけに通うのだ。