ニュース日記 775 五輪と国家

30代フリーター やあ、ジイさん。島根県知事の丸山達也が、新型コロナによるリスクを理由に、県内での東京五輪聖火リレーの中止を検討すると表明した。コロナ対策にくらべれば五輪は開催してもしなくてもどっちでもいいレベルの事業だという冷めた認識があるように感じられる。

年金生活者 半世紀あまり前の東京大会当時にくらべて五輪の価値が大幅に下落していることを示す表明だった。

30代 知事はリレー中止を検討する理由として、現状のままでの五輪開催に反対であることを挙げている。「反対」の理由はふたつあって、ひとつは政府と都のコロナ対策が不十分であること、もうひとつは島根県のような感染が抑えられている地域でも飲食店への打撃は大きいのに、政府の支援がないことだ。

年金 彼は前者よりも後者の不公平さのほうにより大きな憤りを感じていると推察される。島根県は全国の都道府県の中で人口が下から2番目で、知名度も低く、政治的、経済的な影響力も大きくない。そのせいで、国や他の大規模な自治体から軽視されたり、無視されたりする経験を丸山はしてきたはずだ。それに対する憤りが、コロナ対策の支援金での不公平な扱いをきっかけに表出されたと推察される。「よく言ってくれた」と思っている県民は多いに違いない。島根県出身者のひとりとしてそう思う。コロナと五輪のおかげで、近年にない骨のある政治家の発言を聞くことができた。

30代 朝日新聞の世論調査(1月23、24日実施)では、東京五輪・パラリンピックをどうするのがいいかとの問いに「今夏に開催」は11%しかなく、「再び延期」が51%、「中止」35%と、両者で8割を超している。

年金 国民の五輪熱が高まらないのはコロナのせいだけでなく、時代に合わない二番煎じのイベントだからだ。もし1964年の1回目の東京大会の前に今と同じような新型感染症が流行し、そのとき世論調査を実施したら、「開催」派が過半数を占めたのではないか。それくらい当時の五輪熱は高かった。

 あの時の東京五輪は、敗戦の痛手から立ち直った日本の「国威発揚」をはかるイベントであり、国民はまだ残っていた生活上の不如意を「国威」で埋め合わせようと熱烈に歓迎した。高速道路や新幹線など開催に合わせたインフラの建設は高度経済成長をあと押し、国民の生活向上への期待を高めた。それは「国威」を現実的に裏づけるものでもあった。

 それから半世紀以上を経た現在、国民生活ははるかに豊かになった。選択的消費が必需的消費を上回り、生活上の不如意は消滅または大幅に縮小した。もはや「国威」によってそれを埋め合わせる必要はなくなった。五輪は国民にとって選択的消費の対象のひとつとなり、国を挙げて開催するようなイベントではなくなった。

30代 それでも政府や東京都は開催一本槍で進んでいる。

年金 それが与党の票を稼いでくれると踏んでいるからだ。IOCがコロナ禍の中でも「開催」を叫び続けるのはそれで稼げるはずのカネを失いたくないからだ。要するに五輪はもはや「国威発揚」の場ではなく、票稼ぎとカネ稼ぎと消費の材料になっているということだ。

30代 なぜそこまで変化したんだ。

年金 オリンピックが開催国の「国威発揚」に使われた時代は、国家がこのイベントの主要な仕切り役だった。その最たる例がナチス支配下で開かれたベルリン大会だ。当時に比べると、現在の五輪は国家の仕切る力が後退し、代わって企業が前面に出てきているところに特徴がある。森喜朗が五輪組織委会長を辞任したのも、スポンサー企業の意向が働いたことが大きな要因のひとつとなった。

 国家に代わって五輪を左右するようになったのは企業だけではない。個人と国際社会をそれに加えることができる。スポンサー企業が森の責任を問うに至ったのは、「国際権力」と化した「ジェンダーフリー」が彼を許さなかったからであり、さらにこの権力にあと押しされた個人の意思が「世論」となって森批判を強めたからだ。

 その背景には、資本主義の高度化が加速する富の稀少性の縮減がある。それはひとつには選択的消費が必需的消費を上回る消費の過剰化として、そして第2次産業中心から第3次産業中心に産業構造を転換させた産業のソフト化として、さらにモノ、カネ、ヒトが絶えず国境を越える資本のグローバル化として現出している。それらが国家からの権力の分散を促した。消費の過剰化は個人(市民社会)への、産業のソフト化は企業(市場)への、資本のグローバル化は国家間システム(国際社会)への権力の分散を駆動した。

 権力を削り取られた国家は当然ながら五輪を仕切る力も削がれた。その結果、開催費用の出し手としての地位と、開催に利用できる行政資源の提供者としての地位に甘んじざるを得なくなった。

 その結果、開催都市の東京は「国威」に代わって、「ジェンダーフリー」の「威力」が示される場となった。「国際権力」としての「ジェンダーフリー」は森喜朗を「解任」し、自らの意にかなった橋本聖子を後任に「任命」した。