がらがら橋日記 去年今年(こぞことし)

 去年の今頃は、というのが再三話に出てくる。職場で、家で、あちこちで。同じことではないのだが、それぞれに苦しかったというので共通している。職場ではあるトラブルに見舞われていた。家では家族の健康に赤信号が点りかけていた。どれもぼく一人で抱えていたわけではなく、重圧を共有していたからこそどうにかしのげたのだった。

 渦中にあるとき、怒りに駆られて買った自転車は、乗り始めてちょうど一年を迎えた。平時なら決して手を出すことのない価格帯を思い切ったのは、憤怒のエネルギーによるのだが、結果その後の一年、風に吹かれて通勤する喜びにじんわり包まれたので、一時の感情に流されるのもまんざら悪いことばかりじゃない、と今は思える。

 去年と今年を比較してしまうのは、去年が異常だったから、と思っていた。去年に比べたら今年は何ほどのこともない、と思うのは、困難に対処するときに有効だ。今がゼロで去年はマイナスだったのだ、と。話していると、同僚にせよ家族にせよ、そんなふうに話は流れていく。

 だが、去年がゼロで今年がプラスとも考えられるのだ。今の方が異常なんじゃないか、と。事実、異常には違いない。四十年近い教員暮らしで、こんな年は今までになかった。ことごとく行事は中止、縮小。会合もしかり。これまで要したエネルギーに見事に反比例して、大変だったものほど軽くなり、日常レベルのものがそのまま維持されたのだ。これが有形無形の影響を与えぬはずがない。

 毎日届く、児童の欠席状況がそもそも異常である。インフルエンザが皆無、その他の欠席者も嘘のように少ない。新型コロナウイルスを警戒した結果には違いないが、どうもそればかりではないような気がしてしかたがない。そればかりか、児童間、対教師のトラブル、いじめや不登校、などの状況も、これまでと大きく異なる。極めて少ないのだ。ついでに、保護者や職員間のそれを含めることもできる。

 新型コロナウイルスといういわば巨大なストレスを全世界が共有することで、個別のストレス、子どもで言えば運動会で競走するとか、音楽会で聴衆を前にして演奏するとか、教員で言えば、研究会に参加するだの、形だけの会合も出ておかなくてはと思うことだの、が駆逐されてしまったのである。その結果としての体調良好、問題軽減だとすれば、新型コロナウイルスがあぶり出したのは、ぼくたちが闇雲に維持し、変異を拒んできたストレス群だったのではないか。

 さて、来年の今頃、今をどう振り返るのだろう。