ニュース日記 774 権力としての「ジェンダーフリー」

30代フリーター やあ、ジイさん。「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります」と発言し、女性を蔑視したと批判されている森喜朗が東京五輪組織委会長を辞任した。彼の発言は、日大アメフト部の悪質タックル事件をはじめ、近年スポーツ界で相次いだ不祥事と共通点が感じられる。「平等」の理念に反する封建制の残滓を引きずっているところがそうだ。

年金生活者 スポーツは最後に勝者と敗者に分かれる。その点に限れば「不平等」な結果を目指す身体活動といっていい。その代わり厳格なルールが設定され、そのもとでの「平等」が目指されている。それでも勝者と敗者の厳然とした差は、封建的な身分制の残滓を引きずる社会では「平等」の侵害に結びつきやすい。

30代 静岡県知事の川勝平太は森を「女性蔑視をする人ではない」と擁護したと報じられている(共同通信、2月9日)。

年金 森自身も女性を蔑視したつもりはなく、それどころか褒めたと思っているに違いない。

 それは当日の発言にあった「女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い」という言葉からうかがえる。彼は続けて「誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです」と言っている。「優れている」と褒めたのに、なぜたたかれるんだという思いが森にはあっただろう。

30代 その彼が発言を撤回し、謝罪した。

年金 森は記者から「誤解を招く表現や不適切な発言と言ったが、どこがどう不適切か」と聞かれ、「男女を区別するような発言をしたということです」と答えている。つまり、女性だからとか、男性だからとかといった理由で人をけなすのはもちろん、褒めるのもNGだということ、つまり称賛も蔑視になり得ることを彼はたたかれる中で知ったと推察される。

 資本主義社会の労働および労働力は原理的には性差を捨象して初めて成り立つ概念だ。現実にはいたるところで性差が差別を引き起こしてきたが、テクノロジーの飛躍的な発達に支えられた資本主義の高度化は、現実を原理に近づけることを可能にしつつある。

 第2次産業産が牽引した産業資本主義の時代は、フィジカルな力が女性よりも強い男性が労働力として重視された。産業構造を第3次産業中心に転換した産業のソフト化は、その差の根拠を消滅させた。性差による役割分担を否定する「ジェンダーフリー」の思想は、そうした変化を背景に広がった。

 森の謝罪会見は本音を押し殺してその場しのぎのためだけに行なったのではなく、ジェンダーをめぐる現在の先端的な考え方をこの機会に知ったことが動機のひとつになった可能性がある。

30代 そんなにすぐに考えを変えられるのか。

年金 「ジェンダーフリー」はすでに主張や運動の段階を超えて国際法に準じる規範となっており、国家権力の上位にある「国際権力」として森を「解任」したととらえることができる。

 この「国際権力」は司法手続きも行政手続きも経ることなく、短期間のうちに処分を決定し、実行した。その意味で本来の国際法以上の威力を発揮したと言うことができる。どこにも実体のないそんな権力などそもそも存在しているのか、それこそ「陰謀論」ではないかという疑問が出されるかもしれない。だが、そうではない。

 この「国際権力」はグローバル資本主義が必然的に生み出したものだ。資本が国境を越えて自在に移動するようになった結果、それを一国でコントロールするのが難しくなり、G20をはじめとした国家間システムに頼らざるを得なくなった。そのぶん国家の権力の一部が国家間システムに移り、国際社会における国家のウェートが低下した。

 それは国際法および種々の国際的な規範のウェートを高め、新たな規範も生み出した。その代表的なもののひとつが「国際権力」と化した「ジェンダーフリー」だ。五輪のスポンサー企業が相次いで森発言を批判し、IOCがあわててそれに追随し、日本政府もそれに従うほかなかったのは、「国際権力」による処断があったからだ。森擁護論の多くはたぶんそれに気づかないままでいると推察される。

30代 朝日新聞は森の辞任を「世論の批判に押されての辞任騒動」と報じている(2月12日朝刊)。

年金 その「世論」は「国際権力」と化した「ジェンダーフリー」に「押されて」広がった。

 世論は権力にあと押しされて広がる。政府に反対する世論であってもそうだ。集団的自衛権の行使を容認する安保法制に反対する世論が広がったのは、集団的自衛権の行使を憲法9条違反とするそれまでの政府の憲法解釈があったからで、そうした解釈は政府による権力行使のひとつにほかならない。

 ただし、「国際権力」としての「ジェンダーフリー」が森を「解任」したといっても、じかに彼に引導を渡したわけではない。この権力は、国家のような、あるいは国連のような固有の権力行使の機関を持っているわけではないからだ。代わって権力を行使したのが、世界および日本の世論であり、つけ加えれば五輪のスポンサー企業やIOCだった。