がらがら橋日記 同じだけ

 若手教員の研修が不十分だから、先輩から学ぶ機会を作ってはどうか。職員からのもっともな提言だったので諸手を挙げて賛成したら、「先生もやってください」と切り返されてしまった。ずっと先であったはずの順番も、日を送るうちに近づいてきて、さて何を話したものかと考えた。

 いくら学ぶと言っても、訓示みたいになったら聞き手も嫌だろうし、そもそもぼくがまっぴらなので、自分の教員なりたてのころの話をすることにした。

 二年目の春先ごろだったか、ある講演会に参加した。奈良県の小学校教師中山先生が「子どもの心が開くということ」というテーマで語った。その後四十年近く、数多官製の研修を受けてきたが、この友人のプライベートな企画を超えるものは一つもなかった。

 話は、担任した子どもたちが日々綴っていた詩についてだった。演題の通り、それは教師に向かって開かれた心の記録。中山先生の方法はただ一つ、子どもと同じだけ赤ペンで書いて返す、というものだった。

 話を聴いた翌日、ぼくは子どもたちに宣言した。

「今日から君たちが書いたのと同じだけ日記に返事を書く。」

 子どもたちの日記は、みるみる変わっていった。ぼくは、子どもたちの表現に夢中になった。その後も担任になったときは、多少の変化は試みたものの、基本は変えなかった。子どもたちの言葉に生かされてきたのだと改めて思う。

 そんなことをつらつらとしゃべって、もう四十年近くも前の昭和の子どもたちの日記を読んだ。話の終わりに、昨夏届いた当時の子ども、今はもう四十代の母親からの手紙を読んだ。ちょっとしたきっかけがあって、何度か手紙のやりとりをすることになったのである。それこそ四十年ぶりに。

「先生、早速のお返事ありがとうございました。あまりの早さにとっても驚くと同時にとってもうれしかったです。

 先生の字、変わらないですね。いつも赤で返事をもらっていたので青は新鮮でした(笑)。(中略)

 先生の返事を読んでいた私を見て、娘が「何枚返事来たの?」と聞くので「四枚だよ」と答えると「母さん四枚も手紙書いたんだ」と言うので「何で?」と聞くと「だって同じだけ返事をくれる先生なんでしょ」と言ったので驚きました。(笑)」

 この手紙を受け取ったとき、ぼくはこのくだりを笑って読んだ。同じように笑うはずだったのに、教員たちの前で読んでいたら、なぜだか胸が詰まってしまったのだった。